説教

2010年4月18日

いざという間際の話
三枝禮三


創世記27章1-38節


〈13節〉母は言った。「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。」

これは何と凄い言葉でしょう。無私の親切さでイサクの花嫁に選ばれた娘です。それが母となった今ここでは、突然変貌します。いったい何かあったのか。

夏目漱石の小説『こころ』の中で主人公の先生が言います。「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです。」では、そのいざといふ間際とは何か。金です。「金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になる。」遺産相続の場合がそれだと言うのです。

リベカは、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福の遺産を長男エサウに相続させようとしたとき、弟のヤコブに相続させようと計ります。イサクの目が見えないのをいいことにヤコブにエサウの振りをさせ祝福を横取りさせようとする。バレたら祝福どころか呪いを受けるに決まってると怖じ気づくそのヤコブに言ったのです。「そのときには私が呪いを引き受けます。」善人が悪人に変った恐ろしい言葉です。しかし、この言葉のほんとうの凄さは、その悪人の言葉を通して神の言葉が響いてくるところにあります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられる者は皆呪われる』と書いてあるからです」(ガラ3;13)

リベカの恐ろしい言葉も、十字架の主を通して間くとき実に恵み深い神の言葉となるに違いありません。

〈20節〉ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」

これはまた何という真っ赤な嘘でしょう。何という出鱈目でしょう。しかし、それにも増して驚くべきは、神がそのヤコブの真っ赤な嘘を真にしてしまって、ついにはその出鱈目どおりヤコブに祝福が相続されるように取りはからってしまわれたことです。むろん、彼の欺きの罪そのものは、そのまま放置されるわけではありません。やがて叔父ラバンの許でこれでもかと言わんばかりに徹底的に欺き返されて、きちんと審かれなかればなりません。しかし、今ここでは、神がその自由な選びをもってエサウではなくヤコブを選んだその選びを貫徹するためにヤコブの出鱈目どおりに計らってくださったのであります。

旧約外典の「智恵の書」にも「神は人の思いを知り、心を正しく見抜き、人の言葉をすべて聞いておられる…熱情の神はすべてに耳をそばだて、不信のつぶやきを聞き漏らされない」(1;7)とあります。

恐い話です。しかし、その神の計らいは常に私どものために呪いを祝福に換えて下さる最善の計らいですから、私どもの驚愕は、恐れにとどまらず、必ず感紺と讃美へと変えられずにはいないのであります。

〈38節〉「わたしのお父さん、祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福して下さい。わたしのお父さん」エサウは声をあげて泣いた。

ギリシャ語訳聖書では、この後に「しかし、イサクは沈黙していた。」という一句が入っています。或る註解者はここで、「イサクはヤコブを祝福するために彼自身を賭けてしまったのだ」と言っています。だから、いくらエサウに嘆かれても詰られても、イサクは沈黙しているより他なかった。実に神もただキリストの中に人間への祝福をすべて注ぎ込み、キリストにおいて御白身を賭けて来てしまわれたのであります。

新約聖書は言っています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるイエス・キリストただおひとりなのです」(テモテI.2;4-5)「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4;12)

神が、私たちのためにこの名に賭けて来て下さった以上、私たちも唯この名に賭けるより他ありません。



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