説教

2010年4月4日

合同礼拝説教 空になった墓
梅田憲章

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスは、ここにはおられない復活なさったのだ。」


マタイによる福音書 28章1-10節


日曜日の朝早く、二人のマリアはイエスの墓に行きました。イエスの墓の入り口は大きな石でふさがれていて、兵隊が番兵をしています。弟子たちは自分たちも同じようにされるのではないかと恐れ、こっそり隠れていました。婦人たちも同じように怖かった。しかしその怖さよりイエスを思う気持ちが大きかった。墓の近くに来たとき、突然大きな地震が起こり、それと同時に主の天使、姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白い天使が天から降ってきて、入り口の大きな石をごろりと動かし、その大きな石の上にふわりと座ったのです。それを見ていた番兵たちは恐ろしくなって、気を失ってしまいました。

天使は婦人たちに三つの言葉を云いました。
(1) 見張りの番兵は恐ろしくなって気を失いましたが「あなた方は恐れてはいけません」というのです。
(2) 「イエスは復活なさった。御覧なさい、なきがらのあったところを見てみなさい。もうここにはおられないのです」でした。
(3) そして「イエスは復活された。そしてガリラヤへ行き、そこでお会いできる」というのです。

ガリラヤはイエスが始めて伝道し、弟子を選び、多くの人が信じるようになったところです。イエスにとってガリラヤは理想の時代だったのです。弟子たちにとってもガリラヤ湖の漁師だったペトロらは、戻って漁師をする予定でした。傷ついた心を癒す場所でもあったのです。

天使のこの言葉を聞き、婦人たちは、本当にこんなことがあるのだろうか、イエスが復活されて、ガリラヤでお会いすることが出来るなんてと混乱した頭の中で繰り返しながら、「お弟子さんたちに伝えなくっては」と急いで戻っていった。その途中で、イエスが行く手に立って現れて、婦人たちに「おはよう」と声を掛けてくださった。婦人たちはその声を聞き、出会い、「ああ、やっぱり、復活されたのだ」と確信し、近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。そして、そこで、イエスは婦人たちに言われた。
(1) 「恐れることはない。
(2) 弟子たちのところに行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。
(3) そこでわたしに会うことになる。」

天使が婦人たちに語った言葉の最初は「恐れることはない。」でした。その後、天使の言葉に従い、歩みだしたときに、復活のイエスに出会い、イエスが婦人たちに語られた言葉も「恐れることはない。」でした。
この「恐れることはない。」という言葉は将に暗示的です。というのも、
(1) 私たちが日々、暮らして行く時に自分の思ったようにならないことがおおい。そのとき、思いあぐねているわたしたちは、自分の可能性の中で、将来を恐れている。この問題は解決不能だ。この困難は希望を打ち砕く。この寂しさは、癒されない。このような状況が神のご計画なのだろうかと神を恐れる。そのような私たちに、イエスは「恐れることはない。」といって現れてくださる。そして行動を指示される。
(2) 婦人たちは「恐れながらも、大いに喜び」という。恐れの中に解決の兆しを見出したときに感ずる、安堵感。それが導きならば、それに賭けてみようと、思うことが出来る小さな喜び。恐怖に打ち勝ち、一歩を踏み出してみようと決意するとき、暗闇の中にともる小さな明かりを見出したときの確信。行為への自信が将によみがえるのです。
(3) 歩みだした時に、復活されたイエスが現れる。年齢だ、病気だ、仕事だ、付き合いだ、環境だと制約条件をつけ、歩みださないときには,知ることの出来なかったイエスが、行動の最初に私たちに顕れるのです。マリヤに「恐れるな、ガリラヤへ行け、そして、そこでわたしと会おう。」といったのと同じように云ってくれるのです。
イエス様は、復活されて今も生きておられる、というのです。

イースターに、今も生きて働く、復活のイエスの語りかける声に耳を傾け、行動するものとなりましょう。



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