説教

2010年3月21日

命を献げる
梅田憲章

しかし、あなたがたの中でいちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。


マタイによる福音書 20章20-28節


息子ヤコブとヨハネを引き連れた母がイエスの前にひれ伏し願い事を伝えようとした。イエスは「何をして欲しいのか」と言われた。彼女は「あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉をください。」と頼むのだった。イエスは「あなたがたは、このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と問うた。彼らは答えていった。「出来ます」と。しかし彼らはイエスが捕らえられたとき、逃げ隠れ、復活のイエスに出会うまで現れては来なかった。

このことを聞いた残りの十人の弟子たちは、二人の行動に腹を立てた。自分たちの欲望が奪い取られた、先んじられた。それらが彼らを刺激し、怒らせたのであった。弱くて無力で、役に立たない自分は意味ある存在になりえないのではないかと。

現代は将にこの権力志向、役に立つということが大切な世界ではないだろうか。若い時代、この権力志向は必ずしもおかしな世界ではないと自認していた人が、年をとり、仕事を離れ、役に立たなくなった。しかし、かつては、権力志向の世界から引退しても、そこには存在を認める家があった。存在価値は変化しなかった。

老年時代の平穏無事であるために、若年時代は額に汗して働くのであった。ところが今では家が崩壊してしまい、社会的に解決できる道−病院、療養ホームでの生活−で問題解決を図らねばならない時代となった。

イエスが示す神の国はこの権力志向と対極のところにある。神の国のたとえで、ぶどう園の主人が一日1デナリオンの賃金で労働者を雇う話である。5時からわずか1時間しか働かなかった男も、9時から6時まで働いた男も同じ1デナリオンを賃金としてもらった。1時間しか働けなかった男たちは、8時間もの間、広場にたたずみ、不安を抱きながら、絶望感にさいなまれていた。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」この言葉はなんとありがたいことでしょう。周りの人を気にかけて、あと1時間しかないのだから、人の9倍の速度で働けといわず、9分の1デナリオンの報酬で我慢せよともいわないのです。私たちの苦しみをしっかりと見てくださり、私たちの不安や悩みを「感じているよ」といってくださり、「今ある、ありのままのお前でよい。」という神の絶対的評価が私たちを包んでくださったのです。天の国は、無償の恵みとして与えられるものでした。それは私たちの働きによるものではなかったのです。そのような神の憐れみ、恵みによって、私たちは救われるのです。ふさわしく生きるとは、救われた者として、神の恵みにすべてを委ね、自分が、自分がと自分を主張する前に、神のみ心を聞いて、生きることです。天の国は、母親にすべてをゆだねている幼子のように生きるということです。

イエスは役に立たない者も、役に立つことをなしうる者と同じようにちゃんと承認してくださる。いや、逆に哀れみの心を持って、役に立たないと自分に絶望している人に声をかけてくださる。

イエスご自身が仕える人であった。力による権力支配ではなく、イエスのように仕えることこそが教会の人である。イエスのなさった仕えるとは、多くの人の罪を赦すための身代金として、あがないとして十字架にかかり自分の命を与えることなのです。

日本では、屋根の頂きに十字架が立っていさえすればそこはキリスト教会だと考えられています。しかし、それはあくまでも、その屋根の下に集まるキリスト者たちの間で、キリストの十字架の恵みが生き生きと讃美され、その行動がまねられていなければならないはずです。

わたしがこの教会にきたのは、仕えられるためでなく、仕えるためであり、多くの人のために命を棄ててもよい、といえる「聖徒の交わり」が、そこで展開されていなければなりません。



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