説教

2010年3月14日

山上の変容
梅田憲章

イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」


マタイによる福音書 17章1-13節


一日が終わり、新しい一日が始まる。この間に眠りがある。この眠りによって人々は、体に健康を取り戻す。肉体の疲れを癒し、ストレス軽減し、成長を促す。脳の働きに癒しを与え、整理し、知識を貯蔵する。判断力や記憶や直感をアップする。さらに、心に健康を与える。喜びの興奮を鎮め、悲しみを癒し、感情を落ちつかせ、気分をアップする。このようにあるものが終わり、別のあることが始まるとき、そこには今までの目では見ることが出来なくても、新しい出発を可能にする何らかの準備がなされている。それは気合が違うというような精神上のことであったとしても。

静かなナザレの生活が終わり、多事多忙な宣教活動が始まるその間には、サタンによる荒れ野の誘惑があった。生けるキリストの人を教える時代が終わりを告げ、キリストが十字架にかかり、死んで、人を救うべき時代が始まるこの変化のときに山上の変容がある。

ピリポ・カイザリヤで、イエスが受難十字架の死と復活の予告をしてから六日の日が過ぎた。イエスは12人の弟子の中から、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを選び、高い山に連れていかれた。

彼らが登ると、彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。人間の形をとって、この世に生まれたイエスが、本来のあるべき姿に戻られ、律法を代表するモーセと、預言書を代表するエリヤと話し合われたのです。ペトロは、来るべき世を見たことに興奮を隠せず、「彼らのために仮小屋を建てよう」と提案します。少しで長く、三人とともに居たいと願うからです。しかし、ペトロがこう話しているうちに、彼らは、天に戻られ、光り輝く雲が彼らを覆ったのです。光り輝く雲とは神の雲であり、イスラエルの人々すべてに現れた栄光の雲なのです。その雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神ご自身の声が聞こえたのです。無制限に自己を与え尽くす業、言い換えると、自己を捨てる業、具体的には受難と十字架の道を歩もうとするイエス、象徴的には水の洗礼に代わって、血による洗礼を決意するイエスに、神がその業を承認し、大きな声で、彼は「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」であるというのです。そして、三人の弟子たちに「これに聞け、このイエスに従え」というのです。この山で聞こえた神の声は、イエスや弟子たちの思い込みではなく、神ご自身のみ心だったのです。弟子たちは、「神が現れてくださった。神がお言葉を下さった」と畏れ、聖なる神の前に立つ時に感じる自分の罪深さ、神のみ前に立つ時に知るふさわしくない自分に思わず、地にひれ伏すのだった。モーセ、エリヤを送り、地に戻ろうと決意するイエスが弟子たちに近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない。」といわれた。彼らが目を上げると、イエスのほかには誰も見えなかった。神が「これに聞け」と推奨されたメシアもイエスのほかには見当たらなかった。失敗に失敗を重ねる私たち、主の受難のありがたさを理解できない鈍さと愚かさを抜けきれぬ私たち、罪深い私たちに「手をおいて」慰めてくださる方もイエスのほかには見当たらなかった。

このことは、主イエスが生きている時代になさったこと、語られたことが、主イエスが天にのぼられた後も生き続けることを私たちに教えます。主イエスが天に昇り、この地にいなくなった後も、「自分を捨て、自分の十字架を担い、イエスに従うこと」が神のみ旨であることを主張するのです。

ヘブライ人への手紙13章5-8節「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

受難節のイエスの歩みは、私たちに受難の前も後も神、イエス、私たちの関係は変わらないことを示しているのです。



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