説教

2010年3月7日

死と復活の予告
梅田憲章

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


マタイによる福音書 16章13-28節


4章17節から始まったガリラヤ伝道が16章20節で終わる。そして21節から死と復活の予告が始まる。イエスは、長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明ける。弟子たちは、イエスが殺されるということを理解できなかった。さらに死後の甦り・復活は、ますます理解に苦しむ謎であった。この「復活」とは、イエスみずから、その意志と力によって復活することではなく、神の御業であった。

この話を聞いたペトロは神にあわれみを願い、こんな悲惨な出来事が起こらないように、イエスが守られるようにと願った。しかし、イエスはサタン、引き下がれと命じ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っていると言い放つ。この気迫に、人間主義の弱さ、イエスの神の子を見るのである。

イエスは、それから、弟子たちにわたしのいなくなった後も、わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと言われる。ここで、一番大切な言葉は、自分を捨てるです。

自分自身を否定することです。わたしは今日あれを行い、これを書き、それを作る予定だった。しかしそれらを捨てて、教会の礼拝を守った、ではないのです。持ち物も地位も名誉も富みもあきらめてイエスに従ってきた、ではないのです。キリストが自分の中に生き、そして、自分が神の中にいる者として教会の礼拝を守り、神の力を受けてあれも、これも、それもすることが期待されている。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:19-20)」

自分の肉体の命を自分の力で守ろうとする者は神から与えられる永遠の命を失ってしまうが、キリストのために生かされている地上の一生を神とともに生きるものは永遠の命を得る、というのです。キリストのために、自己を否定し、キリストのゆえに自分の十字架を負い、キリストとともに死にいたるまで従順であるものだけが永遠の命を受けることが出来るのです。

今日のこの聖書の箇所は、103歳というご高齢で天に召されたM姉の愛唱聖句でした。彼女は10歳でお母様を23歳でお父様をなくし、夫を35歳で天に送りました。そのとき長女16歳を先頭に次女、長男、7歳の次男の4人の子供が残されました。信仰を与えられていた彼女はおそらく神様に助けてくださいと祈ったでありましょう。まわりの助けを受けつつ、彼女はクリーニング店、進駐軍の病院で働き、子供を育てました。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら」イエスがM姉に語りかける。「はい、わたしはついていきたい。」と彼女は答える。イエスは「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」とM姉に言う。自分の命は神様が与えてくれた子供のために生かそう。この状況をわたしの十字架なのだと。彼女には、イエスが私たちの罪を担って、十字架にかかり、自分の命を捨てられたことがあたかも、自分の身に起こったことのように思えるのでした。

彼女は自分の命の代わりに子供たちが成長して輝かしい将来を背負って旅立っていくことを感じるのでした。

この命を捨てでもと思った彼女には霊の命、永遠の命がともり始めます。この永遠の命がともりだすと、今の命への執念が軽くなるのでした。必死に働き、子供たちは健康で豊かに成長し、この家庭から巣立っていったのでした。彼女は実感するのです。十字架の上で、イエスが漏らした「すべては終わった。」という言葉は、一人一人が救われていく喜びの言葉であったと。

80歳になって、M姉は「主は生きておられます。信じて毎日毎日主にお任せし、祈る日々である。」と証するのです。

受難節、イエスの十字架への思いを改めて学びつつ自分の生き方をゆだねる日々を送りましょう。



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