説教

2010年2月21日

イエス誘惑を受ける
梅田憲章

退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。


マタイによる福音書 4章1-11節


ヨハネから洗礼を受けたイエスは、「悔い改めて、福音を信ぜよ」という宣教の思いに満たされ、神のみ旨に従い、荒れ野に向う。イエスは四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

誘惑する者は「神の子メシアなのだから、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。パンを食べ、空腹を満たし、自分の命を救え。そのことは、全世界の人々の希望を満たすというのだった。イエスはお答えになった。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」神の言葉は不変であり、永遠に力あるものである。「パンだけを食する生活には『死の予感』がつきまとう。しかし、み言葉によって生きる生活の中には、『生命の確信』がある。主イエスは、荒れ野で、わたしたちのために、この道を示された」(三浦義和の言葉)のであった。

そこで、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせる。飛び降りることは自殺行為であるが、神の子なのだから、神は天使たちに命じて彼らの手で支えてくれるはずである。このように神の力ある働きがイエスを守っている事を明らかにして、それから群衆に臨むなら、イエスが伝道の生活を開始するのにプラスになること請け合いであるという。イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えられ、神が共にいて守って下さるかどうかは、信頼と従順の中に見出され、体験されるといって、イエスは悪魔に打ち勝たれる。

悪魔はイエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

神の支配をこの地上に確立し、全人類を救いに導くことこそが神の子イエスの使命であろう。そのために、この世の助けも必要ではないか。わたしはあなたのよい協力者になってあげようではないか。ただし、それには、ひれ伏して悪魔を拝むという条件がついているが。イエスは、「それは、神の代弁者でなく悪魔の代弁者となることを意味している」と思い、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とこの誘惑を退けたのでした。悪魔はついに敗れて、イエスを離れて行く。

人類はパンの問題に悩んでいる。最初のころは自らの生命の守るため努力であった。技術の進歩とともに、収穫量を増やし、種類を増し、栽培可能地を増やすことでき、それは生命維持の域を超え、生活の質の向上につながり、生存競争の鍵となっていった。そして、神のみ心によって生きることから、物自体を神として仰ぐようになっていった。世を挙げて、物崇拝に走り、生ける神への信頼と服従を捨て、物質としてのパン獲得競争に突っ走る人々の中に、パンのみで生きるにあらずというイエスが現れたのである。イエスは石をパンに代え、群集にこれを供することにより、一挙に神の国を確立することができたかもしれない。しかしイエスはそれを拒否した。その服従は自由ではなく、パンに隷属したものとなるからである。

パンだけではない。物、富、地位、名誉、それらに神なしで幸福にする力があると頼っている人々がいる。

自分の力を頼り、自分の計画を大切にし、自分の希望を優先順位の一番にする。それらを与えてくださったのは神であることを忘れている。さらに、神を自分の行動に従わせること、すなわち、神が従順であることを求めている人たちがいる。

イエスの神に信頼し、従順であろうとする姿がはっきりしてくる。悪とは妥協しない。目的のために手段を選ぶ。神の言葉によって神に従い、神に仕える。

受難週とは、人間として誘惑と戦ったイエスの歩みを知る時であり、イエスの歩みと自分の歩みを比べる時なのであります。「ヘブライ人の手紙 2章18節 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」イエスの力を受けて、受難週を過ごしましょう。



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