説教

2010年2月14日

安心して行きなさい
梅田憲章

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」


ルカによる福音書 8章40-56節


この説教は、梅田憲章牧師が幌泉教会にて行ったものです。


ヤイロは会堂長であった。彼はこの世の最高頂点にいた。しかし、彼は一人娘が死にかけていたので、幸せではなかった。彼は頼るべき人をイエス以外に見出すことはできなかった。神の奇跡をすがるには、イエスに助けを求めねばならなかった。イエスはこの会堂長の顔に浮かぶ、必死さを哀れみ、願いを受け入れた。

群集が回りに押し寄せてきて、イエスとヤイロの行く手をはさんだ。この群衆の中に、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。その女はある日、イエスのうわさ話しを聞き、「私も直していただけるかもしれない。」絶望の中に小さな希望をともした。イエスが来られると聞くと「これしか私が癒される道はない。」とその希望は確信にまで膨れ上がり、彼女は必死の思いで、人を掻き分けイエスに近づいていった。彼女にとってこの群集はまさに天の助けであった。彼女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。その瞬間、変化が起こった。イエスのことを聞いたときに感じた、この方なら直してもらえるとおもった、そのことが実現した。彼女は癒された実感に、体が熱くなるのであった。

ところが、イエスは、すぐに、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。イエスに触れた人は多かった。しかし彼らは、だれもイエスの力を受けなかった。イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と主張した。ひたむきに求めた者だけが、力を受けることができるのだ。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第とを皆の前で話した。イエスは女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」彼女はイエスに出会ったときの体を駆け巡ったあつさを忘れることはなかった。

しかしこの出来事はヤイロにおおきな打撃を与えた。会堂長の家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」と言った。ヤイロは希望を失い、絶望にとらわれた。「もう遅い、先生来ていただく意味がなくなりました。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」そして、娘の床に赴き、娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。娘の両親はイエスが事前に、云っておられたことが実際に起こったということにおどろいた。

二人の立場は違うが、共通していることは絶望感であった。しかし二人はすがる思いで、イエスのもとにいき、イエスに出会う。人生において、壁にぶつかり、死を覚悟するほど追い詰められた中で、すべてのキリスト者はすばらしい経験をする。それは自分を頼らず、神を頼りにするようになるのである。壁は私たちに弱さと罪深さを教え、悟らせ、神の力とあわれみを教える。絶望の中ではじめて見えるかすかな希望。そのときに女の耳に届いたイエスの「黙れ、この人から出て行け」といって悪霊を追い出した声。その声を聞いて「私も直していただけるかもしれない。」と、否定しても、否定してもイエスからの希望が生れ出る。実際に、イエスに出会い、心を占領していた絶望感が現実の希望・可能性に変えられ、かって、私を追い詰めていた負の負債さえも、その可能性のゆえに感謝したくなる。まったく新たに作り変えられる。

そのような私たちに、「あなたの信仰があなたを救った。」とイエスは言われる。追い詰められた状況の中で、イエスなら癒してくださるということを見出し、イエスを信じることが救われる鍵となる。この神を知らないで何が幸せだというのだろうか。多くの人はまだ、このことに気づかない。

イエスに出会い、イエスの言葉が実現したという確信をもち、新しく作り変えられた私たちが、新しい歩みを始める。私たちもこのようなあつい人生を生きて行きたい。



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