説教

2010年1月31日

たとえで話す理由
梅田憲章

あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。


マタイによる福音書 13章10-17節


弟子たちはイエスに近寄り、イエスに尋ねた。「なぜ、あの人たちにたとえを用いて話されるのですか」

イエスの答えは驚くべき内容であった。「確かに、わたしはあなた方(弟子たち)にも、あの人たち(群集)にも同じように話しかけている。あの人たちも熱心にわたしの話を聞こうとして集まってきている。しかし、あの人たちは、わたしが話そうとしている、天の国の秘密を知りたいとは願っていない。彼らの願いは、彼らの求めるパンを与えてもらうことであり、病や悩みを癒してもらい、この世の安心を得ることであり、保障なのである。彼らに苦境をもたらしているさまざまな問題の粉砕であり、環境の改善なのである。彼らはわたしの言葉を受け入れようと思わず、受け入れてともに共感し、応答しあおうとはおもってもいない。彼らは、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないのだ。」

これはイザヤの戦い(14-15節)と同じだった。イエスもまた、その宣教活動は神の指示に従い、進められる。イエスのなさった数多くの癒しの業や奇跡の業や招きにもかかわらず、イエスへの敵対する勢力は力を増すのだった。

そのような中で、あの人たちについて語ってきたイエスは、あなた方にと向きを変えて語り始める。

「あなた方には神によって、天の国の秘密を特権的に悟る力が与えられている。あなた方は神の独り子がこられたことを信じている。イエスの業そのものを受け入れている。あなた方は求め続けている。だから幸いだ。旧約聖書の時代では、多くの預言者も正しい人々も、今こうしてわたしを通して明らかにされたことを、日常的に見、実質的に聞くことができなかった。」

弟子たちは、イエスこそが神の国のこの地での姿であることを確信するのであった。

私たちは、今日のみ言葉の中では、あなた方と言われるのだろうか、あの人たちといわれるのだろうか。私たちは聖書の言葉を絶対とは思いながらも、生きるということを人との間の関係に重きをおいて生きている。当たり前である。入学し、卒業するまで、いや極論すると生まれてから死ぬまで、すべてを相対的に序列化し、選択し、「よりよい」を合言葉のように唱えながら、相対的な価値観で生きている。仕事についても、家庭を持っても相対的な価値観で生きつづけている。「よりよい」生活の営みを望みつつ生きている。

このような相対的価値観で生きるわたしたちが、絶対的価値観に基づく「生」を願うときがある。一番のはっきりしているときが「死」を思うときである。周りの人々は大きな助けにはなりうるが、解決を提示することができない。たとえ代わりに死んでくれるとしても、それは自分の生を1秒も長くはしてくれない。いや「死」だけではない。破れ、躓き、孤独、限界、争いなど人との関係における軋みに苦しむときである。それだけではない。喜びの只中にあるときですら、ともに喜ぶ人の少なさに気づくときである。これらは、相対的価値観に生きることの不確かさである。

こんな生き方は危ないと気づき、自分の生き方を変えようと思い、聖書の言葉を見、読み、耳を大きく開き、目を見開いても、どんな声も音も聞こえず、何の明かりも見えない。しかし、生き方を変えると決断したとき(悔い改めた時)、心の扉をたたくノックの響きが聞こえだす。そして、心の扉を開けたとき、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」との声が聞こえ、この世界が広がりだす。

私たちは相対的価値観の成り立つ世界の勝者になるために信仰を持つのではない。神を中心とする絶対的価値観の中に生きることを願い、そこでの実りを信じているのである。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカによる福音書8章15節)



前のページへ戻る