説教

2010年1月1日

慰めの神
梅田憲章

自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。


コリントの信徒への手紙二 1章3-11節


新しい2010年が始まりました。この変化のときに、何を希望し、考え、行おうとするかによって、その年の変化、成長のレベルが決まるのです。

パウロは言葉で言い表せないような、あらゆる苦難に出会った。そうした死を覚悟するほど追い詰められた中、絶望的な境遇の中で、パウロは自分を頼らず、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。そして、神は、これほど大きな死の危険から今までパウロたちを救ってくださったし、またこれからも救ってくださるだろうと確信する。神からの慰めを体験したパウロは、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるということを知った。キリストと共に苦しみ、苦しみの中でキリストに従うのです。

パウロはIコリント12章26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」の言葉どおりに、パウロとコリントの人々は同じ苦しみに耐えることができるのです。パウロとコリントの教会の間には、「苦しみ」と「慰め」による硬い結びつきがあるので、パウロはコリントの教会の中に、どんな憂うべき事態が起こっていても希望は揺るがないということができたのである。

人生は苦難に満ちている。私たちは一生の間に、何度も、どうにも越えられない壁にぶつかり、立ち止まってしまう時がある。この苦難の多くは自分の希望が満たされない時などに感じる。そのようなときに、励まし、支え、慰めがほしい。それには信仰の生活が必要である。とパウロが語っているのではない。どうにも越えられないといいながら、自分の力にまだ希望をもっている限り、また「何とかなる」と計算している間は、その苦しみはただの困難のレベルでしかない。慰めを受けて、気分が強められたり、力が増したり、立ち向かう気力が増すといっても、絶望のふちにいるわけではない。

しかし、いろいろ考え、やってみても、これはどうにも越えられないとわかったとき、その問題は自分の周りを取り囲む高い壁となって自分を締め付ける。そのとき初めて私たちは絶望感に襲われ、自分がどんなにもろく、空しく、頼りにならないものであるかを知る。自分の無力を悟る。自分が一人であることに恐怖を覚え、頼みを神に向け、「主よ、助けてください。」と叫び求めることになる。

自分は死なねばならないと考えた時、自分が頼りにならない存在であることに気がつく。しかしこの絶望を生み出した高い壁は、不幸や不運ではなく、まして罪や裁きではない。壁は私たちに弱さを教え、罪深さを悟らせ、神の力とあわれみを教える。

人生において、壁にぶつかり、死を覚悟するほど追い詰められた中でパウロは自分を頼らず、神を頼りにするようになった。この神を知らずに多くの人は何を幸せだというのだろうか。

壁に背を向け、困難を避け、課題を先延ばしにし、安易に自分で生きる生き方と、まったくの絶望の中で、自分の無力を知り、そこで始めて、神に助けを渾身の力で求め、その結果、神の力強いみ腕に支えられ、自分では越えられなかった壁を乗り越えて生きる生き方は、同じ生き方であっても、結果は大きく異なるだろう。水野源三さんが詩集の中で、「自分の力で動けない、生きられないと気づいた瞬間、わたしをしっかり支えてくださったキリストの身腕が、はっきり見えてきた。」と歌っておられる。

パウロは最後に、自分のためにも祈ってほしいと援助を依頼する。一人でも多くの人々が祈りに参加することによって、神の救いの恵みに預かることができ、そのことによって、その多くの人々が神に感謝をささげることができるようになるのである。だから、お互いのためにとりなしの祈りを祈ることは、お互いを自分から神へと信頼を向けさせることになるのです。



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