説教

2009年12月24日

イブ礼拝説教 イエスの誕生
梅田憲章

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。


ルカによる福音書 2章8-20節


今から2000年ほど前のユダヤの国にすむ人々は、ローマに占領され、その心は荒れていた。人々の「預言者が約束してくれた救い主はどこだ?」という声に対して、何の応答もなかった。人々は、神がユダヤの人々を見放したと思っていた。この世は暗い闇に覆われていた。この闇の中、羊飼たちは野宿をしながら、夜通し羊の群れを見張っていた。彼はユダヤ社会を代表するものであるという自負心と、ユダヤ教が定めている細々した規則を守ることができないという劣等感を持っていた。その羊飼いに、天使が近づき、主の栄光が周りを照らし出した。神はわたしたちを救おうと決意されたのです。わたしたちの世界に、御子イエスを送って下さるという決意を持って臨んできたのです。滅ぼされずにはいられない罪人である人間。まことの神以外の物を自分の神として拝んでいる人間。隣人を赦すことの出来ない人間、悔い改め出来ない人間に対して,神の側から「時は満ち、神の国は近づいた。」と臨んできたのです。そこにいた羊飼い一人一人に、「わたしはあなたを救う。」「わたしはあなたと共にいる」という神の決意が伝わったのでした。羊飼いの一人一人の心が熱く燃え上がった。光り輝きだしたのだった。そして、今日、あなた方のために救い主がお生まれになったということが告げられたのです。それが主の栄光が彼らを照らしたという表現となったのです。

「救う」とは、降って湧いてきたような災難、思っても見なかった病気、予期しない出来事がわたしに起こらなくなることではない。どうしようもない状況に追い込まれたときや何か大失敗したりしたときに、失敗の後始末を任せるということではない。困っている人が困らなくなるようにということでもない。「救う」とは、神が共にいて、その人の考えをただし、その過ちを理解し、謝罪し、壊した秩序を回復することができる知恵と力が与えられるということです。救い主の働きは何も特別な場所や時間の中で行なわれるのではありません。日常的な営みの中で行なわれるのです。

わたしたちの周りには、暗闇ばかりが目立ちます。思い煩い、悩み、苦しみ、いさかい、対話が欠け、誤解が生じ、力ある者が勝利し、弱いものは敗れ去る。真っ暗闇の生活であるかもしれません。しかし、救われる者は、この暗闇に押しつぶされて望みを失うことはありません。この暗さの中にこそ、深い言い知れぬ慰めと希望をもたらす光を見出すことを出来るのです。薄暮では見いだすことのできない光は、暗闇の中にこそ見出すことができるのです。友人との仲たがいや夫婦の間の争いを例にするとよく分かります。相手の思いや考えや態度を変えて、仲が戻るのではなく、自分の考えをただし、自分の過ちを理解し、自分が謝罪し、二人の間の壊れた秩序を回復することができる知恵と力が与えられるということです。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「その出来事を見ようではないか」と話し合い、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てるのです。羊飼いに与えられたしるしは、乳飲み子の泣き声、らくだやロバのにおい、まぐさを咬む音、使い古した石の飼い葉おけであった。羊飼いたちに現れた救い主はわたしたちの生活を知っておられるものであった。ヘブル人への手紙2章18節に「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあるように。

クリスマスには、救われた羊飼いのように、暗い空に輝く星を見たり、み告げに聞いたりしつつ、話し合い、行って、探し当てる、そして、神をあがめ、賛美しながら帰るということを体験するところに意味があります。羊飼いは考えたことではなく、見たこと、聞いたこと、体験したことを伝えていったのです。

羊飼いが体験した、救われた者の信仰の歩みを、現代に生きるわたしたちも祈り求めていきましょう。



前のページへ戻る