説教

2009年11月22日

人の子が来る時
梅田憲章

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。


マタイによる福音書 25章31-46節



マタイの福音書では、人々を二つに分けて比較しながら話を進めることが特徴のひとつです。二つに分けて、それぞれに報いる話として、良い麦と毒麦の譬、花婿を迎える賢い乙女と愚かな乙女の話、5、2、1タラントン預けられた僕たちの話などがあります。羊と山羊の選びは「正しい人たち」と「呪われた者ども」も間でなされるのです。ここでは、行動を伴った信仰と口先だけの信仰を比較していますので、「行い」という点からみ言葉を解きほぐして参りましょう。

主イエスは正しい人たちに向かって「天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい」といいます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」というのです。しかし、彼らは、「主よ、いつわたしたちは、あなたを助けたでしょうか」と疑問を投げ、「私たちは主イエスに出会ったこともありません。私たちが行ったことといえば、小さなことばかりです。隣人のためにだれでもするような当たり前のことをしたに過ぎません。」というのです。主は「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答える。主イエス・キリストがしようと思っていたことを、あなたたちが代わりにしてくれたというのです。その結果、正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。

それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしの衣や食や住や苦難や束縛を助けてはくれなかった。」すると、彼らも答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたの苦しみを見て、お世話をしなかったでしょうか。私たちはあれほど熱心に、あなたのために、あなたの教えを守り、集会するところを造り、礼拝をまもり、献金を捧げたではありませんか。」主はいう。「確かにお前たちの行いを認めよう。しかし、お前たちは、お前たちの周りにいる、この最も小さい者の一人には、何もしなかった。私がしてあげたいと思った事柄すべてに、お前たちは冷淡であった。お前たちの財産のひとかけらも、お前たちの時間の一部分も、お前たちの力の一筋も使おうとはしなかった。確かに、お前たちは規律を守ってはいたが、その規律をいかす愛に欠けていた。それは、わたしにしてくれなかったことなのである。」だから、お前たちは永遠の罰を受けよ。

最後の審判までだれも喜びをもって迎えられるか、怒りをもって拒絶されるかわからないのです。しかし、この物語を通して、神は、自分の身近な隣人の苦しみすべてに、だれでも働こうと思えば、すぐに出来ることの中に、神が潜んでいることを教えてくれているのです。隣人と私との日常関係は、じかにキリストと私の直接行動につながっているというのです。

北森嘉蔵はこの構造を、最後の審判をなさるキリストご自身、さらに神ご自身が、苦しみの中にある隣人に内在して、身を隠しておられるというのです。大きな神への愛の的を後に、小さな隣人への愛の的を前にして、中心を重ね合わせた時、中心を射た矢がふたつの的が同時に射抜くのです。神への奉仕は、隣人への奉仕を通してでないと成り立たないのです。逆に永遠の滅びに至る人々は、神への愛だけを考え、隣人を愛したということがないのです。そうすると、神を、キリストを愛したことにもならなくて、永遠の滅びに入るということになるわけです。

わたしたちが隣人を愛する時に、神を愛し、神に愛されたことを確信できるのです。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
ヨハネによる福音書13章34-35節



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