説教

2009年11月1日

永遠の命
梅田憲章

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。


ヨハネによる福音書 6章41-59節


ユダヤ人たちは、文頭のイエスの言葉を聞き、お互いに顔を見合わせ、イエスが神の子であることを否定するのであった。彼らは自分の見知った事実に基づいて、自分の経験や知識や理性などを総動員し、それに忠実に従い、「イエスを偉人ではあるが、神の子ではない。」と断定したのでした。彼ら自身が断定を下す主体であり、イエスは被告席に立つのでした。「弟子のトマスも「この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というのです。「信じる、信じない」の決定権は自分たちの手の中にある。理性の権威にかけて復活のイエスを否定したのでした。

しかし、イエスはこれらの疑問には答えようとはしませんでした。彼は、47-48節で「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」と答えるのみでした。

永遠に生きることを理解しようとするとだれでも、「死」を考えなければなりません。一般的に人間は自分が有限であることを認めて行動はしていません。知識として、寿命を考え、自分にも死があることは知っています。しかし死ぬ時期は不明なのです。それゆえ、死を遠くに置き、自分が死に向かって毎日を過ごしているとはなかなか実感しないのです。人間は死をより遠くに追いやってしまうために、科学や医学や技術や文化文明を進歩させてきたのです。病については新しい診断技術が開発され、新しい手術が確立され、新しい薬が生産され、治癒していくのです。私のことを例にあげると、親しくなった医師から「あなたは20年前の技術では死んでいるのですよ。」といわれて、驚いたことがあるのです。なんと死は遠くになったことでしょう。それと同時に、聖書が罪と呼ぶ、神のように判断しよう、神のようになろうという傲慢さが強くなってきているのです。38年前のジョン・レノンの “イマジン”という曲もそうでした。わたしたちは何でも出来る。もうどんな宗教の出番はない。と歌ったのでした。しかしそうはならなかったのです。

だれもが死ぬものである。さらに、死ぬ時期が予測される時代に突入したのです。親しい人の死と遭遇し、「あなたの死」を体験すると、必ずやって来る「自分の死」に対する準備、今生きている生の意味を少しでも明らかにしたいという思いがふくらんできます。

「死」を受容するということは、すべてを変化させることになります。死を左右することができない自己がその主体性の座から降りざるをえないことを意味するからです。自己に代わって、私たちの信ずる神が自分の生の主体となる時に、「死とともに永遠の命が語られていることなり、死が救いによって裏打ちさている」ことになるのです。死の告知が、神から与えられる救いに結びついている限り、告知を受け入れ、生を生き抜くことになります。

では、死を受容すると生はどのように変わるのでしょうか。大木英夫先生は
第1に人生を量的に長く生きるから、質的によく生きることになる。
第2に選択的に生きるようになる。闇の業を捨て、光のうちを歩むことになるでしょう。
第3は積極的に生きるようになる。主イエスを着て生きるのです。戦いがあり、古い習慣などを脱却するためです。

イエスは命のパンです。わたしたちに、永遠の命を与え、復活の命を与えてくださるのです。イエスは人間を覆い包む罪と戦い、わたしたちの罪を負って、十字架に向かわれました。罪なき神の子が文字通り、肉を裂き、血を流されたのです。神はアダムが犯した罪をキリストの十字架により、赦されました。世の人に命を与えようと、架けられたこの十字架の上に、永遠に至る道が開かれたのです。

永眠者記念礼拝とは、死を受容して救われていった兄弟姉妹が、わたしたちに望んでいた生き方を思う時であり、その生き方をまた新たに始めるときなのではないでしょうか。



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