説教

2009年10月25日

十人の乙女
梅田憲章

しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。


マタイによる福音書 25章1-13節


十人の乙女が選ばれ、結婚式で花嫁の付き添いの役目を担当したときの話です。「彼女らは花嫁の家でともし火をもち、花婿の到着を待ちます。夜中に花婿が遅れてやってき、乙女らの出番がやってきます。この時点で、予め余分の油を準備していた賢い5人の乙女らは、整然と明かりをつけ、式場についていきます。が、愚かな5人の乙女らは油が足りなくなり、急いで油を買いに行くのです。その間に、扉は閉められ、戻って来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と頼んだが、『私はお前たちを知らない。』とことわられるのです。」

よい準備には鉄則があります。それは、
1)目的をはっきりとさせること。
2)準備をすることを決めること。
3)さらに万が一の時の想定をすること。
4)終わった時の評価をきちんとすることです。
乙女らに与えられた役割の目的は、お二人によい人生の出発をしていただこう、だったのです。しかし、愚かな乙女たちは、花婿を迎えるのが目的であるとしたのです。だから、花婿が遅れることを予測せず、余分の油を壷に入れて持っていなかったのです。

結婚は洋の東西を問わず、宗教的な側面を持っています。自分ひとりの歩みが終わり、二人の新しい時間が始まるのです。一方で別れがあれば、他方では一体化が始まるのです。まさに今まで歩んできた陸地はここで終わり、海が始まるのです。父母の元を離れ、新たな相手との旅立ちは、安定を手放し、喜びとともに、大きな不安を感ずるものであり、二人の考え方、性格や感情の起伏についても、初めて知ることも多く、生活の脆弱さも無意識のうちに不安となり、行く先の心細さが増幅され、神の導きと守りを必要とするのです。

十人の乙女は他人事である結婚式の単なる立会人ではなく、また明かりの数を確保するための人々ではないのです。厳粛な結婚式の証人として、二人の新しい二人の門出に立ち会っているのです。不足をきたした油は、結婚をする二人にとって、暗闇の中の歩みを確実にする明かりの原料だったのです。

このようなわたしたちの人生の変曲点ともいうべき時に、神は明確に姿を現します。病になった時。検査をし、治療に入ります。健康な歩みに別れを告げ、制約の生活に、いたわりと癒しの中の人生へ。

定年退職の時。他人に決められた時間の中の生活から、自分で決める時間の中で計画する生活へ。収入生活から年金生活へ。病が癒された時。もう無理はしないように生活しようと思うでしょう。このようなあることが終わり、新しいあることが始まるという経験は多いのです。そのような時に「賢い」とはこの変曲点を支配する、統べ治める、じっと見ていてくださる方が居られることを信じ、その明るさの中で、希望を持ち、行動しようとすることです。「愚かな」とは、この変曲点を見過ごしてしまったり、神がその場を支配されていることを信じていないか、あるいは自分の力で乗り切ろうとすることです。

わたしたちにとって、最も大きな変化は、わたしたちの死です。終わりが来るのです。しかし、終わりは滅びではありません。滅びではないと信じ、むしろ救いのときとして微笑をもって待っているべきです。

神は13節で、「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」とわたしたちに語りかけます。

人生の変曲点に、だれでもが持っているこの油を生かすと人生を明るく、先を見通す灯りになるのです。この油は一人一人が用意すべきもので、貸し借りの出来ないものです。しかし、だれもが自分の人生で、用意出来るものです。すでに十分持っているという方も、まだ足りないなと思う方も、イエスを信じる信仰、イエスを愛する心、神の愛に応える行い(これが油なのです。) によって、神が導いてくださる「賢い人生」を送ろうではありませんか。



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