説教

2009年10月18日

合同礼拝説教 ぶどう園の労働者
梅田憲章

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。


マタイによる福音書 20章1-16節


イエスさまはぶどう園でぶどうを取り入れる時の話をします。ぶどう園の主人は、何とか雨期に入る前に、ぶどうの収穫を終わらせてしまおうと一生懸命です。夜が明けると、広場で、働く人を集め、ぶどう園に送り込みました。さらに、主人は9時、12時そして3時にも働く人を集めに行きました。さらに、夕方5時にも広場に行ってみるとまだ仕事を探している人がいるではありませんか。「お前たちは、なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と主人が尋ねると、男たちは、「だれも雇ってくれないのです」と言うのです。それを聞いた主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行って、働きなさい」と仕事を与えたのでした。

やがて賃金の支払いの時が来ました。最初に呼ばれたのは夕方5時、最後にぶどう園に働きに来た男たちでした。この人たちはわずか1時間しか働かなかったのですが、賃金は1デナリオンでした。それを見た、朝6時から12時間働いていた人たちは、1日1デナリオンの約束でしたが、どのくらいふやしてくれるのかと期待に胸を膨らませながらその番が来るのを待っていたのです。しかし、この人たちも賃金をもらってみると1デナリオンずつでした。それで、彼らは主人に不平を言うのです。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。私たちはまる1日、暑い中をがまんして働いたのです。それなのにわたしたちと、この連中とは同じ賃金なのですか。」主人はその一人に答えた。「友よ、わたしはあなたには、間違ったことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。だから、 黙って、1デナリオンを受け取って帰りなさい」といったのです。

人は自分に有利な点ですぐに比較をしたがります。朝6時に来た男たちは、12時間も働いています。報いてもらうのは当然です。ただ、ただ、労働にふさわしい対価を期待するというのです。1時間しか働けなかった男たちは、11時間もの間、広場にたたずみ、不安を抱きながら、絶望感にさいなまれていました。

考えて見てください。私たちの人生は、刻々とその姿を変えています。朝6時から働いた男のように、自負心に満ち、誰にも負けずに働き、堂々と報酬を期待する時もありました。その時なら、自分の力で永遠の命を獲得できると考え、そのように行動して、主イエスにたしなめられたでしょう。天の国は、自分の働き、業績、献金などの対価として、また報酬として与えられるのではありません。人間の働きの質や量のいかんに拠らないのです。

しかし、不安の中にたたずみ、ぶどう園の主人に出会い、主人から声をかけられなければ、働きたいのですということも出来ないこの男たちのような時期もあるのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」この言葉はなんとありがたいことであろう。周りの人を気にかけて、あと1時間しかないのだから、人の12倍の速度で働けといわず、1/12デナリオンの報酬で我慢せよともいわないのです。私たちの苦しみをしっかりと見てくださり、私たちの不安や悩みを「感じているよ」といってくださり、「今ある、ありのままのお前でよい。」という神の絶対的評価が私たちを包んでくださったのです。神のなさる業は平等でした。神は「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」というのでした。

天の国は、無償の恵みとして与えられるものでした。それは私たちの働きによるものではなかったのです。そのような神の憐れみ、恵みによって、私たちは救われるのです。ふさわしく生きるとは、救われた者として、神の恵みにすべてを委ね、自分が、自分がと自分を主張する前に、神のみ心を聞いて、生きることです。天の国は、母親にすべてをゆだねている幼子のように生きるということです。



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