説教

2009年10月11日

天の国にふさわしい者
梅田憲章

先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。


マタイによる福音書 19章16-30節


イエスは青年の問いに応えて、言われた。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男は意気込んで「どの掟ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」イエスはこの青年に、救いの道はすべての人にすでに開かれているというのです。青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。」しかしそれだけでは、永遠の命に届かないのです。「まだ何か欠けているでしょうか。」青年はこれまでひたすら律法に適う善行を積み、それによって人に対する神の評価が変り、自らの救済が確保されると考えていた。青年には、永遠の命に与かる者の喜びと希望がわかなかった。戒めを守っているが、彼には救いの確信がなかった。彼の信仰は形式的で生活に直結したものではなかった。何か足りない点があるはずだ。それは何だろうか。

イエスは 青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」といわれた。イエスは青年に従うことを命じ、そして、財産がこれを阻むのであれば、完全な放棄を求めたのであった。

青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。彼は自分の可能性の中でのみ考え、実現を願った。自分の努力と実行によって、今まで達成してきたように、天の国に入る権利を得ようとした。彼は財産に富んでいるだけではなく、自分の力による律法的努力の熱心においても富める人であった。彼はその富によって、自分を神に明け渡すことができなかった。彼はイエスの言葉を従来の自分の考えで捉え、今までの成果に付け加え、もう一つの善行の要求であるとしか解しなかったため、悲しみながら立ち去らねばならなかった。永遠のいのちは持ち物を売却して施すその功徳によって得られるということではない。「富」にとらわれた自我の罪をいっさい捨ててキリストに従えということである。もし、彼が永遠の命の価値を正しく理解したら、自分の財産を売り払い、イエスに従う道を選んだであろう。

イエスは弟子たちに言われた。「金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 だれでも富に対する願望を持ち、執着を持っているのですから、イエスの言うところによれば、救われることは不可能に見えるのです。そこで「それでは、だれが救われるのだろうか」と弟子たちは言ったのです。イエスは不安そうにイエスを見詰める弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 人それぞれに持っている捨てがたいものを捨て、イエスに従うことは人間には出来ない。神の力による助けなしには出来ないのです。人は自分の救いのために全く何もすることができない、しかし、その絶望の中に神の恵みのわざはなされる。神にはすべてのことが可能である。

この青年には、この神の救いの確信を受け入れる余地がなかった。もし、彼が、永遠の命はまったくの賜物として与えられることを知っていれば、彼は善行、業績、財産などへのこだわりから解放され、律法によって強制的に善行を積むのではなく、喜びのうちを生きられたでありましょう。

永遠の命は、自分で得ることが出来るという可能性を否定するところから始まり、神から与えられる、という神の可能性への信頼が唯一の道であった。与えられているということに気づくだけでよかった。人間にとって大切なことは、神の前に立つ時、自己中心的な自分のものから手を離すことである。永遠に変わらない価値ある目標は、神が実現し、私たちに提供されており、それを見出すことが大切なのである。

主は私たちの「求める心」を喜ばれるのです。



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