説教

2009年10月4日

互いに赦しあう
梅田憲章

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。


マタイによる福音書 18章21-35節


わたしたちは、なかなか隣人を赦すことが出ません。どうして赦すことができないのでしょうか?

ペトロがイエスの所に進み出て、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問をしました。イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」完全に赦しなさいというのです。このどこまでも赦しぬく。これはイエスご自身が実行されようとしていたことでありました。イエスは、むちうち、愚弄する言葉を浴びせ、十字架につけ、口々にののしりの言葉を浴びせかけた人々に対して、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」( ルカによる福音書23章34節 )というのです。この無条件の赦しこそがイエスのもたらした神の国の福音の中心なのです。イエスは、有限回数、7回を努力で赦しぬくという限界的な考えから、「神の人間に対する寛容さを人間同士の間にも成り立たせよう」と考えたのです。

たとえ話の債権者はいかに大きな赦免にあずかったかということは忘れて、仲間に百デナリオンの負債の返却を求めて、捕まえ、首を絞め、牢に入れるのです。愛と哀れみの情が1滴もないのです。彼は自分が赦された罪人だという実感がなかった。だから神の赦しを反射することができなかった。彼は神の憐れみを受けたという実感がなかった。だから、神の憐れみの世界を他人に与えることが出来なかった。

仲間の負債をゆるすことのできなかったこの男の中に、友の罪を赦すことのできない私たちの姿が示されています。神に対する無限の負債と、人間相互の間の相対的な返済可能な負債とが、対比されているだけではなく、神の限りなき憐れみと、人間の非情な冷酷さとが、対照的に示されています。神からの無限の赦しを受けていながら、悔い改められない者に神ご自身が、ここで「怒った」としるされています。そしてこのたとえの終りは「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」で結ばれています。

わたしたちは神に繰り返し、繰り返し、加害を加えています。それは神の御心よりも自分の思いを大切にし、自分の欲を中心においているからまのです。そのようなわたしたちを、神はイエスの十字架の贖いによって、赦してくださる。そのような私たちが、隣人が自分に対してなした行為を(罪を)自覚したとき、そこに、怒りを覚え、赦すことの出来ない自分がいることを自覚するのです。自分が神から赦されたのだから赦さなくてはと、赦すことの出来ない自分をたたいて、教えて、唱えて従わせようとするのです。

しかし、私たちが変わらずに関係を変えることが出来ません。自分の思いから手を離した時、赦すことの出来ない自分に、聖霊による新しい生命が働き出すのです。生かされるのです。生きている自分が生かされていく自分に変わるのです。わたしたちはしなやかに、強くなるのです。赦すことが出来るようになるのです。

今、札幌JRタワーで、無言館「祈りの絵」という美術展が開かれています。出征し、帰らなかった若き画学生たちの残していった絵画展です。これらの絵を見ていると、生きているのは生かされているからなのだ、と思わざるを得なくなる。彼らは父や母や隣人を描き、自然、山川、花々を描き、時を思った。その絵を見て、生かされていることを忘れ、生かされているという感動を失い、自然、山川、花々を見ても心を動かされず、時が有限であることを考えずに生きているわたしたちが見えるのです。自分の思いがいつも中心にあり、すべての判断のベースとなっている。自分、自分、自分。イエスは私たちのその思いに、あなたが赦されている恵みを考えて見なさい。生かされている神の愛を考えて見なさい。赦すことがすべての基点となっていることを示されるのです。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、──赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。コロサイの信徒への手紙 3章12-13節。



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