説教

2009年9月27日

「あなたがたが」と主はいわれる
鳥居坂教会 張田眞牧師

しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」


マタイによる福音書 20章1-16節


鳥居坂教会 張田眞牧師による説教です。 音声は教会員による朗読です。



5千人の給食。

この不思議なパンの奇跡は、主イエスというお方がどのようなお方であるかを伝えています。それは、かつて神が天からのマナによって出エジプトの民を養い、約束の地へと導いたように、主イエスは新しいイスラエル、まことの神の民を養い導く方であるということです。そして、この出来事は私たちがあずかる聖餐とその恵みを指し示しています。

ある人が、この物語が愛され、繰り返し読まれていたであろうと言って、「初代教会の歴史において、パンの奇跡のようなことは繰り返されることはなかった。パンは決して増えない。しかし、人々はこの物語をこよなく愛した。」初代教会はしばしば激しい迫害を経験しました。決して平穏無事ではない。欠乏、貧しさとは、いつもお付き合いをしていたようです。弟子たちの手元にあったパン5つと魚2匹、その貧しさは教会の姿でもあったといえましょう。その初代教会の歩みにおいては、パンが増えるというような奇跡は繰り返されることはなかった。しかしながら、教会は主イエスのなさったパンの奇跡を伝えるこの物語をこよなく愛し、これを繰り返し読んで神を讃美したのだというのです。もしも、パンが増えることを期待していたなら、この物語は憎しみの対象となったでしょう。しかし、そのようなことを求めず、自分の手に持つことがゆるされている欠乏と貧しさ、それを喜んで受けとめる、そこに神を讃美する交わりがあって、その交わりにおいてこの物語が読み継がれてきたのでした。



今の時代は豊かですが、ひどい孤独と飢えの病が人々の心を浸食しています。「飢え」とは自分の欠乏を自分で埋めようとする貪欲。貪りの病です。「孤独」とは自分の声しか聞かない病です。初代教会は貧しさの中にありましたが、この物語を愛し、繰り返し読んで,神さまを讃美する豊かさに生きたのであります。

ところで、5つのパンと2匹の魚は弟子たちの奉仕を通して多くの人々に分かち与えられたのでした。主イエスは「あなたがたが」と仰せになり、弟子たちをその奉仕へとお招きになりました。その弟子たちとは、どのような者たちだったでしょうか。この出来事は、主イエスに遣わされて伝道へと出かけていった弟子たちが帰ってきた直後のこととして伝えられています。彼らはパン5つと魚2匹しか持ち合わせていません。何も持たずに伝道へと遣わされ、帰ってきたばかりです。備えのあるはずがありません。しかも、乏しいというだけではなかった。貧しさを痛感していたのではないでしょうか。伝道の日々で喜ばしい経験もあったでしょうが、人間の罪に対面もしてきたはずです。それは、決して他人ごとではなく、自分の罪をも覗き込まざるを得ないような経験でもあった。貧しさを痛感する。弟子たちは大いに戸惑ったに違いありません。主はそのこともご存知のはずです。

しかし、この不可能で無謀な主の命令は、決して、いっときの戯れではありませんでした。それは、弟子たちがあずかる食卓の恵みの大きさ、主が用意なさる聖餐の豊かさを教えることとなりました。主は弟子たちの携えていた僅かなもの、パン5つと魚二匹をお受け取りになってそれを祝福し、弟子たちの手を通して人々に分かち与えられたのでした。

主は貧しい弟子たちをご自分のもとにお引き受けになっておられたということでありましょう。

主がお引き受けくださらなければ、とうてい持ちこたえることはできません。主はそのようにして弟子たちをお用いになりました。
主の憐れみは、そのようにして、すべての人に分かち合われたのであります。



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