説教

2009年9月20日

キリストと共に
大久保照牧師

弟子達はイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」


マルコ福音書 4章35-41節


大久保照牧師による説教です。



この時、何故、弟子達は舟を出したのでしょうか。大切なことは、私達の生活が「さあ、行こう」という主の御言葉と共に始まるということであり、その御言葉を聞き漏らして、正しい信仰生活は有り得ません。ガリラヤ湖の突風は、まさに予想できない突然の出来事であり、生の基盤を否定する恐怖でありました。「今、私は生きている」という最も重要かつ基本的なことが根底から覆されてしまう危機でした。人生の試練に直面して、何とか乗り越えようと必死に努力する者の足下をさらって行く恐ろしい力が、そこにあり、人間の努力の全てを虚しさの中に消し去るカがそこにありました。

主に導かれ、主と共に船出した人生でも、この危機から逃れられないという現実を忘れてはなりません。信仰生活とは、永遠の生命を仰ぎ望みながら、なお、この現実の中で、「キリストと共に行く」ことを何処までも味わい尽くすことなのです。

弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びました。わけの解らないのはこの言葉です。そして「わけの解らない言葉」を口にするのが危機の中の人間なのです。

弟子達は主イエスと同じ舟に乗っています。突風にであって辿るのは同じ運命であり、もし死ぬならば、その死は平等である筈です。それどころか、ガリラヤの山地育ちの主イエスより、生まれながらの漁師である弟子達の方が、嵐の中で生き残る確率は遥かに高いと言うべきかもしれません。それにも拘らず、弟子達は、この危機を主イエスの責任にしているのです。私達もまた、よい時は当たり前、悪い時は「自分だけが苦しんでいる」と思い込むのではないでしょうか。幸福な時は自分の努力、自分の働きを誇示します。しかし、ひとたび不幸が訪れると、周囲の責任を追求し、社会や時代への不満を叫び、揚げ旬の果てには、「神を信じられなくなった」とまで言うのです。「わけの解らない言葉」とはこういうものです。

彼等は、何故、こうなってしまったのでしょうか。初めは主の指示に従って舟を出しましたが、湖の上では、いつの間にか、自分が主役になっていたのです。毎日働いている湖の上、扱い慣れた舟、積み上げてきた経験と技術。そこでは主イエスを必要としなかったのではないでしょうか。キリストを不要とする人間中心の世界が、平穏な湖の上にはあったのです。しかし、ひとたび突風が吹き、大波が襲うと、自分達の努力が何の効果もないことを思い知らされ、圧倒的な力の差であることに、初めて気付かされるのです。私達も、長い間それぞれ努力を重ね、相応の知識と経験を身に付けて来たでしょう。平穏無事な時や、ある程度の障害ならば、何とか切り抜けることもできるかも知れません。しかし、これまでの歩みを完全に否定するものに直面し、人生の根拠そのものが問われる時、積み上げて来たものが何の役にも立たないということを発見するのです。自分が持つ全てのものが、人生の大事に全く役に立たないということに初めて気付くのです。

その時、わけの解らない言葉を叫ぶ弟子達の前で、主イエスは起き上がり、ただひとこことで嵐を静めました。主は、御自身に従う者を恐れさすものの存在を許さず、断固として行為し給うのです。

確かに、嵐は弟子達を恐れさせました。破滅の危機に直面させました。しかし、それにも拘らず、舟は沈みませんでした。主の眠りは、湖を行く者が「自分の力で生きているつもり」という愚かさに気付くまで、しばしの時を与えたのであり、「さあ行こう」という御言葉に従って舟に乗った者の安全は、主が保証し給うのです。「さあ行こう」。神の国への門出を告げる主の御言葉は、今も私達の心に響いています。



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