説教

2009年9月13日

究極の希望
梅田憲章

畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。


マタイによる福音書 13章44-52節


イエスの時代、人々は財宝をつぼに入れ、土の中に隠すのがふつうであった。これは強盗や兵隊の略奪から財産を守るための最も安全な方法であった。そしてこの持ち主がつぼの在り処をだれにも告げずに、死んだり、奴隷となって他国に売りとばされたりすると、土の中の宝はのちに偶然発見されるまで隠されたままになるのであった。ある小作の農夫が畑を耕していた時、畑の中から宝のつぼを掘り当てた。昨年も、一昨年も彼はこの畑を耕していた。しかし、見つけることは無かった。これを発見した農夫は大喜びであった。その宝物を本当に、完全に自分のものとすることを考え、畑を入手するため、これまで彼の生活を支えていた一切のものを手放すのだった。彼はその畑を買い取り、宝を掘り出し、自分のものとした。そして彼はもう小作の身でなく、自分の畑を耕す自立した人間となった。彼は完全に変わったのであった。これは彼の生の根拠の転換であった。

また、古代において真珠はきわめて貴重で高価であり、ペルシャ湾やアラビヤ海で取れ、最も美しいものとされていた。エジプトでは真珠を礼拝するほどであった。ある裕福な大商人が一生懸命、最高の真珠を探し回った。しかし彼は海に潜って探したのではなかった。貝を開いて探したのでもなかった。しかし彼は希望の真珠が売りに出されていることを知ったのであった。彼は、発見した真珠を驚きをもって見つめた。そして真珠を入手するために一切を売り払い、その真珠を買った。この二人はきっぱりと今までの自分の生活を棄て、新しい環境、新しい生活に飛び込み、本当の幸福への道を歩みだしたのだった。この二人の、瞬間の迎え方は見事です。天の国の偉大さ、すばらしさを理解しているからでしょう。

さらに、網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。あなたがたはどんな風にいろいろな種類の魚がその網の中に入ってくるかを知っているだろう。岸に着くまでは魚は捕らえられたとは知らず、そこで裁かれるとは思わない。しかし、やがて網が絞られ、網が岸にあげられたとき、初めて魚はえり分けられる。価値を問われることに気づくのである。

神の国はそうである。人々を分けはなす時が必ずくるのである。それまでの間はこの世は、あらゆる種類の人とあらゆる状態の人をその中に寄せ集める。その中には律法主義の人も律法を破る人もいる。血気にはやる熱心党の人も黙示的なエッセネ派の人もいる。邪悪な人も尊敬すべき人もいる。弱い教会は純粋な教会を性急に作ろうとし、律法主義の人々を避け、神に助けを求める。しかし神の答えは、終末に審判があることと悪い者どもがその審判を必ず受ける運命であることを強調するのである。神はその日まで、悔い改めることを望んでいる。

最後に、この物語を読みながら、心の中によぎった言葉は、大木英夫先生のローマの信徒への手紙の説教集の一節だった。もし溺れた者が助けられた時、自分も一生懸命泳いだからだ、といってよいかを問うた。そうではない。助けるものが上から手を差し伸べて助けたのだ。ただ彼の助けのみが、私の救いであるというべきではないか、というカール・バルトの言葉を引用し、「ひかりに うたれて 花がうまれた」という八木重吉の詩を紹介している。花が開くのは、花の中にある力によってではなく、神の光に打たれるように、その下に身をさらす時、心の固い殻が破れ、音を立てるように、花(救い、自覚、認識、──)が生まれるというのです。

偶然見出したものも、探して見出したものも、いずれも発見は受身的です。自分の力で獲得したのではなく、神が与えてくださったということを理解して、神の光の中にたちたいものです。



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