説教

2009年8月30日

はい、参ります
三枝禮三牧師

リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。「はい、参ります」と彼女は答えた。


創世記24章58節


5節「決して息子をあちらへ行かせてはならない」

ぜひ自分の故郷へ行って嫁を探してこいと命じておきながら、アブラハムは何故こんなに固くイサクを故郷へ連れ帰ってはならないと命じたのでしょう。不思議です。矛盾しています。しかし、二つの命令には優先順位があるのです。主によって導き出された旅は勝手に曲げたり逆戻りさせてはならないというのが基本線です。将来の懸かった嫁探しと難もその基本線を曲げたり逆戻りさせたりすることは許されません。その基本条件が障りになって談しがまとまらないなら僕は空手で帰ってきてよいと、誓いさえ解かれるのです。それにしても融通の利かないアブラハムの頑固さのため嫁探しが不首尾に終ったら身も蓋もないではありませんか。しかし、主イエスは言っておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)これはまるでアブラハムの選択に太鼓判でも押して下さっているようなお言葉ではありませんか。

わたしたちもよく頑固で融通がきかない奴だと言われます。しかし、太鼓判を押して下さっている主のお言葉を感謝し、信じてお従いするだけであります。

12節「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してくさい。」「顧みて」は「どんぴしゃり引き合わせて下せえ」といった素朴で率直な言葉です。後は娘を見分けるための物差しの提案です。心からの優しさと頑健さが分るハードルの高い試験問題です。それをパス出来る娘が現われたらそれこそ奇跡です。神の業です。「その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」とあります。預言者アモスは「まことに、主なる神はその定められたこと( 隠されたこと)を、僕なる予言者に示さずには何事もなされない」(3:7)と言っています。言うまでもなく、この僕は族長でも予言者でもありません。ただの年老いた無名の僕です。その彼が隠された主の御業の目撃者、証人、予言者とされたのです。それこそ主の御使い、主の霊の働きによると言うより他ありません。パウロが言っている通りです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断出来るからです。」昔の話ではなく、現代でも主の霊の働きがあるところでは、主の御業を拝見させられるという奇跡が起ります。(実例一つ)。無力な唯の人間でしかない私たちでも、主の霊は、隠された救いの御業を拝見させて、その証人として下さることが出来るのであります。

57節「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」

1ヶ月もの長い旅の忍耐の後で急転直下その旅の目的がかなえられる出会いの出来事が起りました。事態は急激に進行します。「走る(ルーツ)」という動詞が玉突きのように次から次へと4回も繰り返されます。劇的です。親兄弟の許しを得た僕は、翌朝起き抜けに主人の許へ発たせてほしいと申し出ました。嬉しい知らせを携えた使者はぐずぐずしているわけにいかないというわけです。では本人の口から聞いてみようとリベカがやっと呼び出されます。「お前はこの人と一緒に行きますか」これは小さな問いですが、神の大きな救いの歴史(救済史)という赤い糸が切れるか否かの危機です。リベカは答えました。「はい、参ります」何という潔さでしょう。「エーレーク(行きます)」という一語です。それは神が救いと祝福の約束を果たそうと導く歴史、救済史という赤い糸が織り継がれて行くその最先端でリベカによって決断された主の招きに対する従順です。「はい、参ります」

神による救済の歴史という旅路を歩む旅人としての信者に求められる姿勢は、この僕とリベカが示した忍耐して待つことと急ぐことです。そして、主によって引き合わされた道連れと一緒に行くことです。



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