説教

2009年8月9日

聖霊の実
梅田憲章

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。


ガラテヤの信徒への手紙 5章16-26節


一人が自分の欲望を達成しようとすると、周りの人の欲望が達成されることを妨げる傾向があります。

自己主張がぶつかり合い、自分の利益を求め、そこには打算と駆け引きが現れ、兄弟愛を破る罪――敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみが現れ、人間関係を破壊するのです。これら以外にも性の乱れから起こる悪徳、宗教的な罪、さらには、不節制の罪などがあり、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできないと聖書は語ります。

この肉の働きを制することは、努力や修行や学習では不可能です。肉の働きと戦うものは霊の力なのです。

神が、外側から私たちに与えてくださる霊の力によらなければ、人間の力では肉の力を制御できないのです。しかし、霊の世界に生きたいと願う反面、肉の世界での勝者になることが明らかな時には、自分の欲望を達成しようとする心が起こります。そのような私たちの弱さを、カルヴァンは「だれも戦わずして、霊的に生きることは出来ない。」と語っています。神とともに生きる生活は、霊の力を借りて肉の力と戦うことを心がけるところから始ります。何度も何度も、肉の力に負けます。それが現実です。自分の弱さを味わい、障壁の高さを前に、絶望的な気持ちになります。しかし、神は赦しが備えられていることを教え、憐れみをもって、私たちを支え、導いて下さるのです。キリストとともに生きる者として肉と戦えというのです。

19節の肉の業に対して、22節では霊の結ぶ実が語られます。まず、霊が結ぶ最初の実は「愛」であることが告げられます。自分のために、他人を踏み台にする肉の働きに対して、互いに受け入れ、生かしあう態度、それが愛なのです。霊の世界の2番目の果実が「喜び」です。私たちが独力で戦う時に感じた敗戦の悲しみや苦しみの叫びに代わって、神とともに生かされている事への感謝が喜びとなっているのです。神は、戦い続けた私たちに対立や戦いや憎しみに代えて、ともに生きようとする思い、平和を下さるのです。そのためには、相手の責任を追及する姿勢を、自分の責任は?と視線の移動をする勇気を必要とします。例えば、二人の間に争いが起こります。仮に私の責任はわずか5%、相手には95%の責任があるとして、当然変わらなければならないのは相手であると追及するのです。しかし、5%の私が変わることを始めてみるのです。私が変わると、関係が変わりだし、それに対応して相手も変わりだす。まさに二人の関係は平和になるのです。同じように、親切とはまず自分の状況を棄て、改めて自分の役割を考え、相手の人を受け入れることを私たちに要求します。誠実とは、変わらない態度です。関係の修復を願って、相手の悔い改めをじっと待つ態度のようです。柔和とは、自分に対する思いやりのない態度や否定的な言動にあったときに、祈りをもって対応する姿勢です。霊の実とは与えられるものでありますが、受けるには私たちの変化を要求するのです。

これは、イエス・キリストの十字架を、イエス・キリストの生涯を思い起こさせるでしょう。主イエス・キリストに従う決意をしたときに私たちに与えられる霊の実、新しい生命なのです。

この生き方は、新しく作られた心と体と永遠を見つめる希望とそれに基づく生き方です。この生き方は時代や場所や経験や学識などとはまったく無縁の生き方で、キリスト者の最も自然な生き方といえるでしょう。

キリスト者がキリストの者であるにふさわしく、これらを携えて生きることが求められているのです。言葉や行いや思いなどすべてでキリストを表そうとすることこそがキリスト者なのです。

肉の働きを棄て、肉の生活に支配されることを止め、霊に従う生き方をする時、年齢が増すにつれ、下り坂を駆け下りるような肉の人生とは別に、神のもとに駆け上がる人生が、霊の導きにしたがって前進する人生が花開くのです。



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