説教

2009年8月2日

自由を奪うパン種
梅田憲章

この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。


ガラテヤの信徒への手紙 5章2-15節


キリストがこの世界に来られる以前には、イスラエルの民の誇りは律法が与えられていることでした。

最初の律法十戒は神から恵みとして与えられたものであり、エジプトの政治的支配と異教世界からの解放を意味するものでした。律法は人間を法的規定で束縛し、その奴隷とさせるのでした。

その中にキリストが到来しました。これにより、本当の神の民は誰であるかが改めて知らされたのです。神の民であることは、律法によってではなく、キリストによって、洗礼において、キリストと合わされ、キリストに属するものとなることによって与えられるようになりました。

パウロは律法の支配下に戻ろうとするガラテヤの人々と、人々を導く律法主義キリスト者に、「割礼かキリストか」、「律法による義か信仰による義か」と決断を迫ります。パウロは、救いの条件にはキリストの十字架の贖いの力だけで十分といいます。わたしたちは主イエスを主と信じる信仰を持ったときに、すでに救いを与えられているのですが、さらに霊により、信仰に基づいて、未来における救いが完成することを切に待ち望んでいるのです。これが現在の基督教の真髄であります。もしあなたが教会員として、キリストに結び合わされているならば、その働きは、愛の働きという形で現れます。信仰こそが愛の業を生み出し、律法の要求を満たす原動力となるのです。 「キリスト中心のキリスト教において、重要なことは外面的儀式の有無ではなく、救い主キリストへの信仰であって、それが溢れて、愛の生活となることである。」というとおりです。

ガラテヤ教会を襲った汚染が連鎖反応を起こして波及していき、福音の真理を毒する誤った教えが広がっていきます。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。とパウロはよく知られた格言を語ります。

どうしてこのようなことが起こるのだろうか。それは、キリストの福音は誰にでも、喜んで迎えられる万人向きの「良き教え」であることが出来ないからです。パウロは11節のところで「十字架の躓き」という言葉を用いて、人の罪、人の高ぶりと激しく衝突するさまを表している。それらの人々には十字架の言葉は躓きになるのでした。

ダマスコでの回心によって、パウロは神が自分をどう見ておられるかを知るのでした。悔い改めは反省することではなく、回心することであり、変わることなのです。パウロはこの時、罪からの救い、律法からの解放を体験したのでした。パウロは、肉の働きは、滅び去っていくものであることを知るのです。自分を主語とするすべて、自己中心性、自分に対する利害関係もそうでしょう。パウロはそれに代わって、愛によって互いに仕えあいなさいと勧めるのです。キリストがわたしたちを愛されたように、愛によって互いに仕えあう、そのために自由が与えられているのです。キリスト者の自由は愛を持って仕えるために行使される自由です。

律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。自分を愛することは人間の自然的本能です。それは信仰によらないとき、自分のことしか考えない利己主義に陥ります。しかし、利己主義の罪から救われたキリスト者は、自分を愛することにより、自分のかかわりのある隣人を自分のように愛することができるようになる。神に対する愛がこの隣人に対する愛の源泉となるのです。 

ローマの信徒への手紙13章8-10節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。



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