説教

2009年7月26日

二人の女のたとえ
梅田憲章

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。


ガラテヤの信徒への手紙 4章21節-5章1節


パウロはガラテヤ教会の中で、パウロの教えから離れ、律法に従おうとする人に「律法の言うことをあなたがたは理解しないのですか」と語りかけます。

物語は「アブラハムが、75歳の時、神から「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」という約束を頂くことからはじまります。しかし、10年の月日が流れても妻サラには子供が授からないのです。サラは不安になり、つぶやき、神の約束を疑い、そしてアブラハムに「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラハムは、サラの願いを聞き入れ、そして、女奴隷ハガルはアブラハムとの間に男の子を産み、イシュマエルと名付けるのです。その時、アブラハムは86歳でした。さらに14年がたちます。アブラハムが100歳、サラは90歳となったときに、神は言われた。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」そして、神は、約束されたとおりサラを顧み、サラは身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付けたのでした。」。パウロは「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。あなた方はアブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクのどちらの子孫なのか」を問いただすのでした。

この物語を神がハガル、サライとの間に交わした約束に着眼して解釈し、女奴隷ハガルはシナイ契約を現しており、その契約に従って生きるユダヤ人はアブラハムの血統を引くが、奴隷状態を免れない、律法を固く守る今のエルサレムのようである。一方、天のエルサレムとは、来るべき、新しい天に用意されている神の恵みの賜物であり、その代表であるイサクは、神の約束を実現するものとして(23節)、霊によって生まれたのです(29節)というのです。

パウロはさらに、ガラテヤの兄弟たち、あなたがたは、ユダヤ人のように律法にしたがう肉の子どもではなく、約束の子なのです。それなのに、なぜ、いまさら律法を守って、肉の子、ユダヤ人のようになろうとするのですか 。(創世記21章9節)あなたがたは、自由な身の女から生まれた子なのです。キリスト者の自由とは、神に対して「アバ父よ」と呼ぶことの出来る身分を持っている子としての自由です。まことの子の立場こそが自由であるというのです。その自由は自分自身の意志の力によってではなく、自由を与えてくださったキリストを信じる信仰によって与えられるのです。キリストがわたしたちを罪の「のろいと束縛」から解放してくださったのはこの自由をわたしたちが正しく行使し、その自由に生きるためなのです。

いくつかの選択肢の中から一つを選ぶことが出来ることを、自由であるとする見方があります。投票する人、新聞、宗教、職業、結婚相手、政治形態などを選べる自由がある。さらに、神は私たちが神のため、また隣人のために選択を行うことを望んでおられる。これらは確かに自由では在るが、パウロの語る自由とは異なるようである。パウロの語る自由とは罪の、奴隷であることや律法の束縛からの解放ということである。この自由は人間の選択によって実現するのではなく、神の選択によってもたらされるのです。

ガラテヤの異邦人は割礼を受けるか否かを考え、割礼を受けるという決断をすることにより、選択の自由を行使することにより、神が与えてくれた自由を失い、奴隷の身分になるのです。

パウロの言う自由は単なる選択の自由を越えた、根源的なもののようです。キリスト者の自由とは、その自由を使う場合も使わないでいることもすべて神に対して責任を負うことになるのです。



前のページへ戻る