説教

2009年7月19日

神に知られている存在
梅田憲章

しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。


ガラテヤの信徒への手紙 4章8-20節


当時、ガラテヤの人々は、まだ神を知らず、もともと神でない神々、この世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。諸霊とは、霊的な力を持ったものとして、人々を支配し、精神状態まで束縛するのでした。この脅威から逃れるため、もろもろの霊を信仰の対象とし、祭儀が考え出され、断食や祭日を守ることが行われたのです。

今日の私たちの周辺では、律法の下より、世を支配する諸霊に仕えるというほうが実情に近いように思えます。占い、縁起、方向、曜日、運勢判断などです。自分の生きる価値を富みや地位や権威や名誉に求め、そのことに隷属している生活は、未成熟時代と言えるでしょう。現代の日本では、貴重な人生を、世を支配する諸霊に従って考え、行動し、生きている人々が多いように思うのです。この領域の最大の特徴は、主語が人間なのです。私たちが、周りの人が、みんなが、という言葉が主語となります。パウロは、この仕立て上げられた神々を信じるとは言わないで、奴隷となっているといっています。

「しかし、今」、彼らがパウロと出会ったとき、どのような変化が起こったのでしょうか。パウロは (13節)体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせたのでした。パウロの病を多くの人は小アジアの風土病マラリヤ熱ではないかと推測しています。彼らは、病気はサタンの仕業、悪霊の働きによるものと考えていたので、病気のパウロの言葉を受け入れることは、「あなたがたにとって試練ともなる」ことであったのです。彼らはさげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれたのです。

ガラテヤの人々が信仰を持つようになった時の感激は、福音をはじめて知ったことによるのでした。彼らは、神が自分を一人の人間として認識し、愛を持って自分を見守っていることを知るのでした。神は私に無数の恵みを与えてくださっていることに気がついたのでした。それまで自分は家庭や仕事の平和と安全、繁栄、成長などを目的として歩んできました。キリストの十字架と復活によって罪が赦され、救われた私たちが、初めて、降り注ぐ様な恵みを私に降らせてくれている神を本当に知ることが出来るようになったのです。

信仰告白する「今」、彼らは「私が神に愛されていることを知っている。」と告白するのでした。その言葉こそ、「神から知られている」ということなのです。キリストと出会うことによって、神によって知られている時代、選ばれ、招かれている時代が始まるのです。

ここでの特徴は、主語が神になることです。私たちが知るのは、神の存在ではなく、神が私たちを愛してくださっていることで、私たちが神を知るよりはるかに先に、神が私たちを知るのです。

それなのに、なぜガラテヤの人々は、律法のもとに戻ろうとするのか。 なぜ、神に知られている私たちが、それを知った時の感激を忘れ、さらに神を忘れようとするのだろうか。信仰を失おうとしている人々へのパウロの悲しみの思いが大きく膨らみます。

パウロはローマの信徒への手紙の中で、それは私たちの肉の体がこの世に生きているためであると述べています。サタンの誘惑はありとあらゆる機会を利用して私たちに襲ってきます。神はイザヤ書59章1-2節で「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」と語っています。

わたしたちのこの教会が、一人一人の五体を清め、私たちが義の道具としての働きをなす、そのような役割を担うものであり続けたい。



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