説教

2009年7月12日

ふたたび招かれて
札幌北部教会 久世そらち牧師


ヨハネによる福音書 21章15-19節


復活した主イエス・キリストは、弟子たちと食事を共にした際、三度もくりかえしペトロに「あなたは私を愛するか」と尋ねました。「ペトロは悲しくなった」とあります。主は、私のことを信用してくださらないのだろうか・・・。むりもありません、主イエスが捕らえられたとき、ペトロは三回くりかえし主イエスとのかかわりを否定したのです。ペトロの悲しみは、かつて主を見捨て、裏切った、自分自身に対する悲しみではなかったでしょうか。

しかし「私を愛するか」という三度の主のことばは、ペトロの三度の裏切りのことばを、ひとつひとつ拾い上げ、許すことばでした。そして、主に背いた罪を悲しむペトロに、主は「わたしの羊の世話をしなさい」と、主の教会を牧する使命を与えたのです。

牧師は誰もがペトロの悲しみを知っています。牧師は、罪のない聖い人ではありません。罪人のひとりが、それにもかかわらず、主から羊を飼う務めを与えられているのです。「私は、かんじんな時に主に従うことができなかった」という悲しい記憶に胸のうずかない牧師がいるでしょうか。にもかかわらず、主は、その悲しい罪人を再び招き、「わたしの羊の世話をしなさい」とつとめを与えます。牧者は、この主の許しと命令のもとにようやくその職につかされるのです。

札幌中央教会は、按手を受けられた梅田憲章先生を、あらためて牧師として迎えようとしています。梅田先生も、他のすべての真実な牧者と同じく、ふりかえって、主の前に自分を悲しまずにはいられないような、つらく、苦しい体験をも味わってこられたことでしょう。しかし、あのペトロを再び召してつとめにつかせた主イエス・キリストご自身が、教会の牧会のつとめにあらためて招いてくださっています。今、梅田先生と、札幌中央教会と共にそのように確信するものです。

さて、主はまたペトロに「若いときは、自分で帯を締めて行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると行きたくないところへ連れて行かれる。私に従いなさい」と告げます。牧会の使命を負うことは、自分の思いが束縛され制限され、思うように行動できなくなることだ、という意味かもしれません。自分の思うようにならなくなるその時にこそ、「わたしに従いなさい」という主のことばが響くのではないでしょうか。

牧師の就任に際し、教会と牧師は、互いに主のみむねと信じ、みこころに従う決意をもって互いを受け入れます。その際、それぞれに期待や希望、計画や展望があるでしょう。しかし、それぞれの思いが、実現しないことがあります。こんなはずではなかった、どうしてこちらへ行かせてくれないのか、そっちへ行かねばならないのかと、葛藤や不満、不安や失望に直面することでしょう。それぞれの思いが実現しないそのときにこそ、教会も牧師も共に「私に従いなさい」とのみことばの前に立ち、自分の思いにではなく主に従う思いを深くされ、誰でもない主の道を導かれるものとなることでしょう。

ところで、ペトロが主からふたたび使命をうけたのは、主と二人きりのときではなく、他の弟子たちの見守る中でした。彼らは、ペトロが使命を託されたことの証人となると共に、その後ペトロの同労者として、その働きを支えることになります。

今日の就任式もまた、知られないところでひっそりと行われるのではありません。教区の他教会もまたこの就任式を、教会全体の交わりの中の大切なできごととして見守っています。梅田憲章先生が主から託された使命によって札幌中央教会牧師に任じられたことの証人となるとともに、これから梅田先生と札幌中央教会の働きを同労者として共に担う思いをもって、主に祝福と導きを祈るのです。



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