説教

2009年7月5日

あなたがたは私の子
梅田憲章

それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。


ガラテヤの信徒への手紙 4章1-7節


パウロは、律法の下にいないガラテヤに住む異邦人の人々にとって、神への直接の接触を拒むものは、世を支配する諸霊だというのです。世を支配する諸霊とは、人間世界に支配を及ぼすものであって、人々の生き方や行動や考えや判断・決断を左右したり、影響を及ぼすこの世の数々の教えや迷信や言い伝えです。これらは神ではないのですが、霊的な力を持ったものとして、支配し、精神状態まで束縛するのです。この脅威から逃れるため、霊的存在をなだめるために、信仰の対象とするのです。祭儀が考え出され、断食や祭日を守ることが行われました。このような状態にあることを、諸霊に奴隷として仕えていた、とパウロは語るのです。

今日の私たちの周辺でも、神への直接の接触を拒むものは、世を支配する諸霊であるというほうが実情にあっているように思えます。占い、縁起、方角、曜日、字画、画数判断、血液型、星座、相性などゲーム感覚などであれば笑ってすごせるこれらの事柄も、宗教的色彩を帯びてくると厄介です。

これ以外にも、自分の生きる価値をほかに求め、そのことに隷属している生活は、ある意味では未成熟、未成年の時代と言えるでしょう。自分の過去を思ってみても、お金に関心を寄せ、仕事上の成果や昇進に異常な興味を持ち、人生を勝ちや負けで判断していた時代がありました。ずいぶん長い時間、そのために考え、行動し、生きていたように思うのです。

自分の歩みを変えるもの、それは、2節にある 父親が定めた時です。神を知ることなく、成長し、飛躍することは不可能なのです。知識や知恵は増えます。しかし、それは飛躍を促すのではなく、世の諸霊の下での生きる知恵に過ぎないのです。

神が御子を遣わされたとき、罪に苦しむ人間と同じ姿に、御子を生まれさせたのです。そして、律法の支配下にある者、世の諸霊に引きずられる者を助け出し、かれらに神の子としての身分を授けるためだったのです。「神の子」とされるというのは、イエスの十字架の死によって、律法ののろいから贖いだされた者たちが受ける神の祝福を示しているのです。

私たちが「神の子」であるということは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、受けていることによって証明されます。洗礼を受けるとき、私たちの心に遣わされた御子の霊は、そのまま私たちのうちにとどまって「アッバ、父よ」と叫び続けさせてくれます。

私たちの中に御子の霊を受けた経験、確信はないという方がおられるかも知れません。しかし、私たちが「天の父なる神さま」と祈る時、御子の霊はすでにそこに満ちているのです。キリスト者とは御子の霊に支えられて歩く者なのです。信仰の弱さ、確信の無さ、歩みの弱さを自らが嘆くことはありません。私たちは神の子として、捉えられ続けていることを覚え、感謝を持って、歩むことのみが問われているのです。

あなたは相続人としての資格を持った成年者です。ついに飛躍がかなえられるのです。キリストを通して、神の子の自由と永遠の命を手にするときの喜びを味わうことが出来るのです。この神に受け止められ、受け入れられるならば、自分の将来が見えず、恐れと不安の中で動くことも出来なくなった私たちも、一歩、一歩と歩み始めることが出来るのです。キリストを通して変わることが出来るのです。

一人一人の人生の中で、神が計画されておられる時が満ちる。その時、神から注がれている恵みや愛の賜物を、私たちが信じる信仰という器によって受け取ることが出来る。そして、この世のもろもろの霊力から解放されて、神の恵みの財産を受け取ることの出来る者へと飛躍する時を迎えるのです。

人が、本当に成年者と変われるときは、キリストの恵みを受け、キリストによって生きる人間になった時なのです。



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