説教

2009年6月28日

キリストを着るもの
梅田憲章

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。


ガラテヤの信徒への手紙 3章21-29節


パウロは優秀なそして忠実な律法保護者でした。その彼が、迫害の途上で、復活の主イエスに出会うのでした。パウロは律法以外に神との関係が成り立つことを主張するものを赦すことが出来ませんでした。彼は律法の指し示すところに従って、イエスを信ずる者は誰でも迫害し始めたのでした。しかし、彼は今聞くのでした。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」パウロにとっては、この時信仰が現れ、神がパウロに臨んだのでした。パウロは変わるのでした。変わるということは、理屈でなく、納得づくではありません。一瞬であり、ちょうど圧力のかかったビンの栓を抜いたように、一瞬で変わるのです。

キリストの支配下にある新しい時代が始まる。律法の行いによってではなく、信仰によってキリスト・イエスに結ばれて、ユダヤ人も異邦人も同じように、あなた方はみな、「神の子ども」とされる。その根拠は今までの律法のように行う側、信ずるものの側ではなく、神の側にある。神の側から与えられる神の恵みや愛の賜物は、恵みが差し出されていると信ずる信仰によって受け取ることが出来るのです。

さらに洗礼によってあらゆる種類の人々が、一切の差別を超えて、キリストの恵みにあずかるのです。洗礼はそれを受ける者をキリストに結び合わせ、洗礼を受ける者が白い衣を着たことに由来し、キリストを着ているといいます。ルターはこの時に状況を、「キリストがわたしたちのうちに、考えだけではなく、完全に、実際に、最高に、現実的に生き、働く」と語りました。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ガラテヤの信徒への手紙2章20節と言い表しているのです。

この「キリストを着ている」という言葉は、実にすばらしい表現です。民族の違い、人種の相違、社会的な身分の区別、男性・女性という性別などの差別を消し去るものではありませんが、それらの影響を受けるものでもありませんでした。しかし、それぞれの間の障壁、敵意、差別主義、また優越感や劣等感を打ち砕く一致、覆ってしまう一致でした。それらの違いを神の前に無意味なものとするのでした。

また神の前に立つことの出来ないと思う私たちの罪や不義や不信仰、自らの弱さや貧しさ、あるいは傲慢さ。神は、これらを覆っているキリストという衣を、私たち自身であると見てくださるのです。私たちはこの神の前に立つことが出来て初めて変わるのです。人と人の中での自分が変わるのです。

一人一人役割が異なり、得意な分野は違い、経験が異なり、才能や能力が異なっていてもみんなが同じキリストという衣を着て活動するのです。誰かがミスをしても、黙ってそれを補い、助け合うのであります。誰かが怪我や病気で戦列を離れたら、一日も早い回復を祈り求めるのです。何か自分がそのために行うことが無いかを考えるのです。何を行うかを考え、実行するのです。生まれつきの自分がキリストを着たとき、新しいチームの中で新しい役割が与えられる。神の家族の交わりを通して新しい人間が誕生するのです。

キリストの到来以前には、イスラエルの民の誇りは律法でした。律法はイスラエルの民を特別な民として、他の民族や宗教から区別する、神から与えられた賜物でした。その律法に忠実に聞き従うことによって、イスラエルの民は神に選ばれたものとしての特権的な地位を維持しようと努めたのでした。キリストが到来し、本当の神の民は誰かが改めて知らされました。

生まれつきの自分を受け入れ、キリストという衣を着ることを許され、神に受け入れられ、神の家族の交わりを通して新しい人間として生まれ変わるのです。

「 イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」ヨハネによる福音書 3:3



前のページへ戻る