説教

2009年6月21日

律法と約束
梅田憲章

神によって定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない。


ガラテヤの信徒への手紙 3章15-20節


神がアブラハムにお与えになったご契約とは、神はあなたとあなたの子孫の神となる。神はあなたとあなたの子孫に土地を与える。神は、あなたとあなたの子孫によって、地上の諸国民に祝福を与えるであった。

神からアブラハムに与えられた約束は一方的であり、神の恵みの賜物であった。一方、律法はその履行を条件として求めていることから、両者には本質的な相違があるのである。パウロは人間の遺言だっていったん作成したら、誰もこれを無効にすることは出来ない。それと同じように神が作成した約束を、後から出来た律法が無効にするということなどはありえないことだというのである。ユダヤ教徒は、契約を相続するには律法遵守を不可欠とした。しかし、パウロは約束の相続は律法によらず、ただ信仰によるとした。

もし律法が救いの手段として役立たないものであるならば、律法の役割は何なのか。パウロはその意味をガラテヤの兄弟に語るのであった。ユダヤ教徒は律法を永遠不滅であると考えていた。しかし、パウロは、アブラハムから430年後に始まりの時を持ち、キリストの到来を終りとする有限なものと語る。

律法はモーセという仲介者の手を経て制定されたもので、仲介者とは神と人のあいだにあって、その双方に役立つことを成し遂げる。それに対し、パウロは、約束が、唯一絶対の神の一方的な恵みとして与えられたものであり直接的であると主張する。

約束は神からアブラハムに、律法は天使・モーセからイスラエル民族に与えられたものである。

ユダヤ教徒はまさに律法遵守こそが約束に預かる道であり、律法は、罪を犯すことの無いようにわたしたちに与えられたものであると考えた。それに対し、パウロは律法こそが罪の自覚を生ずるようにするものだと考えた。律法の働きは、「罪を知らせる」ことにある。法に触れることにより罪の意識が芽生えるというのである。誘惑の最初の一歩は「知ること」から生まれる。さらに、律法を知ることにより、「罪を犯すこと」になる。大麻の生育を図る若者が後を立たない。簡単に手に入る、出来る、吸ってみたい。知ることにより簡単に行動へと進み、罪に染まっていく。誘惑の次の一歩は「行うこと」へと人を誘い込む。

第3は「弱さへの定着を是認する。」律法に書いていることを遂行したいという気持ちはある。しかし、誰でもそれを完全に成し遂げることが出来ないことをよく知っており、経験している。他人を見、比較し、不完全な善で自己満足し、あきらめる。

ユダヤ人に律法を捨て、約束を相続して欲しいというパウロの気持ちは通じないのであった。

パウロの律法に対する態度は正統的ファリサイ派の態度であった。パウロは律法を喜びとし、熱心にそのいましめを守った。パウロは優秀であり、律法の指し示すままに働いた。律法はパウロの熱愛するものであり、律法以外に神との関係が成り立つことを主張するものを赦すことが出来なかった。パウロは誰でも迫害し始めたのであった。彼は律法の熱心に燃えてキリスト者迫害に狂奔した。しかし、彼はダマスコ途上で復活のイエスに出会い、自己の倒錯に気づいたのであった。律法遵守に最も熱心であるものが、最も大きな、誤りを冒したのであった。パウロはそのすべてを変えるのであった。真の自由を「律法に於いてではなく、約束のうち」に見出すのであった。

もし、わたしたちが、福音以外に、律法によって正しく生きることを求めたならば、わたしたちは、そのことによってかえって神から離れ、傲慢になる。それは自分で自分を評価し、そこに可能性を見出し、他者と比較するからである。律法に熱心であればあるほど、その傲慢さは大きく、硬くなっていく。人間にその固さを砕くことはできない。神によって砕かれなければならない。身が砕かれ、言葉が砕かれ、思いが破かれたとき、神が素直に感じられ、神に受け入れられるようになる。



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