説教

2009年6月14日

アブラハムとキリスト
梅田憲章

あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。


ガラテヤの信徒への手紙 3章1-14節


ガラテヤの人々は「信仰によって生きる」ことを確信して、神の民となりました。その時の驚きと喜び、感激と感謝は一方ならぬものがありました。神の聖霊を受け、新しい人間として、生まれ変わって出発したのでした。しかし、その時の熱い感激が薄れるにつれ、その歩みは力強さを失いはじめ、もっとこの救いをはっきりしたものにしよう、他人に分かりやすい形にしようという思いが魅力的に響くのでした。彼らは魔法をかけられた人々のように、割礼を行い、自己満足に酔い、自己充足し、そのことによって、信仰を確実にし、信徒の教会への帰属意識を明確にしたと思い込むのでした。

ところで、この「律法を行う」とはどういうことなのでしょうか。J.A.サンダーズという神学者はこの当時のパウロとユダヤ教の人々が、律法という言葉が表す内容の相違を指摘しています。

モーセの律法五書はシナイ山における神の啓示を表す言葉からなっていて、書きとめられて、物語と法典からなっています。ハガダーと呼ばれる物語、歴史部分は、「私は誰なのか」という自己確認の問題に答える役割を果たし、一方、ハラカーと呼ばれる法典部分は(倫理的、祭儀的法典とともに)「私たちは何をなすべきか」という生活様式の問題に答える役割をしています。ラビ的ユダヤ教はモーセ五書を「規範を提供する法典・ハラカー」として「私たちは何をなすべきか」という思いで読んだのであり、パウロはハガダー面を強調して、「私は誰なのか」という自己確認の問題に対する神の義の働きとして読んだというのです。

律法と福音について、よくあらわした小説、ジョン・バンヤンの「天路歴程」があります。その本の主人公の巡礼基督者は、キリストの十字架の前にきて、それを仰ぎ見た時、それまで負い続けてきた重い荷物がひとりでに転げ落ちるのを自覚するのでした。それは、罪の重荷であり、自己自身であり、しなければならないという律法の綱で縛り付けられている古い自己なのでした。巡礼基督者は十字架を仰いだ時、古い自己がそこに釘付けされているのを見るのでした。そしてそのことが、新しい勇気と生きる力を与えてくれることを知るのでした。

福音を聞いて、受ける聖霊は次の4つに分類されます。

1.聖霊を受けて、ガラテヤの人々のように、過去の束縛や挫折や恐れから解き放たれ、新しい世界に移されます。神の霊は、個々の人間の生活に変化をもたらし、信仰と支えあいの共同体を作り出します。聖霊は彼らの中心にあって力を与える現実となったのです。

2.聖霊は「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」であらわされるように、肉に対してその対極に位置づけられています。肉の働きは「もしあなたがこれこれのことさえしてくれれば、神はあなたを憐れむでしょう。」と語りかけます。

聖霊の働きは放蕩息子の父親の働きです。

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカによる福音書15章)

3.聖霊は新しい時代の力であり、生気と力ある働きの源泉です。聖霊は、人を「イエスは主である」という基本的な信仰告白に導き(コリントの信徒への手紙一 12章3節)、愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制(5章22-23節)などの聖霊の実を結ぶように人々を導くのです。

4.聖霊は教会全体に下るのであって、少数の選ばれた指導者にのみ臨むのではありません。全体に臨むのですが、同じように臨むのではありません。与えられた賜物には、いろいろなものがあります。個人的な経験にも違いはあります。しかし、信仰に於いて応答するすべての者はすでに聖霊によって恵みを受けており、福音の慰めと要求に直面する時、同じ聖霊による働きかけを受け続けるのです。聖霊は少数者の中にではなく、教会全体の中に働いているのです。



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