説教

2009年6月7日

信仰とは
梅田憲章

人はただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。


ガラテヤの信徒への手紙 2章11-21節


アンティオキアでは、ユダヤ人も異邦人も共に、信徒の交わりを持ち、共に「クリスチャン」と呼ばれていました。このことは、ユダヤ人・異邦人といった民族的な属性よりも、キリストへの帰属関係が決定的なものとなったことを示しており、歴史上画期的な出来事でありました。アンティオキア教会でユダヤ人、異邦人が食事と聖餐をともに受けていたのです。

しかし、エルサレムから律法に厳格な立場に立つ者が来るに及んで、ケファがこの者たちを恐れるのです。厳密に律法をまもろうとする同胞の信徒に対して、信頼を失ってはならないという配慮が働いたのでしょう。パウロは一人孤立し「心ではユダヤ人も異邦人も主にあっては一つと信じていながら、外に現れた行動では異邦人を差別しているではないか」とケファをなじるのでした。この事件は、パウロの主張が十分受け入れられず、このあと、パウロはアンティオキアを離れることになるのです。

当時ユダヤ人の選民思想は「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではない」でした。ユダヤ教では律法を行うことによって義とされる(神が人に無罪と宣告する、救われる)からであります。パウロの反対者たちは「律法こそが神の恵みであり、パウロはその神の恵みを無視している」と非難しています。 しかし、パウロは律法に生の根拠を置く者こそキリストを賜った神の恵みを無にしているというのです。律法の実行によって義とされるということであれば、それは人間の側の行為、行動、働きによることになります。これは対立、競争、差別を生み出していく道でありました。

キリストを信じることによって義とされる、救われる道は、イエスの十字架によって開かれたものです。

イエスは神によってさばかれるべき人間の罪をすべて担って十字架に向かって歩まれ、神の裁きを受けられました。イエスは十字架の上で、「神よ、彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです。」と、罪ある人間のために祈られたのです。

このイエス・キリストはイエス・キリストのみに委ねる者を神にとりなして下さるのです。神はイエスのとりなしを受け、私たちを罪赦されたものとして受け入れてくださるのです。義とされた者、救われた者は、自分の命をもってキリストの救いの業をのべ伝えたいと願うでしょう。救われたから、働くとなるのです。

ペトロは、各地を訪問して回っている保守的な「ユダヤ主義者たち」がエルサレムから来た時、自分が最も大事に思っていることが何であったかを明らかにしました。彼らは、心ではユダヤ人も異邦人も主にあって、一つと信じていながら、外に現れた異邦人を差別するという行動で波風を避けるという人間の知恵、人間の習慣を教会形成や教会の生活の中心に生かそうとする過ちを犯すのであった。

「人は生きてきたように死んでいく」(オスラー)という言葉があります。彼は医者として、多くの患者さんの最期を看取り、しっかり生きてきた人はしっかり亡くなっていくし、人に甘えて生きてきた人は甘えて亡くなっていくと書いたのです。(柏木哲夫著 心をいやす55のメッセージ)この文章は、さらにこう書き足すことができるでしょう。人はぎりぎりになった時、建前を捨て、本音に戻る。自分の大切にしていることをなそうとする。み言葉の力、恵みの力によって救いを確信するか、キリストの言葉と人間の知恵を使い分け、行為の実行によって少しでも救いを確実にしようとするのか。

パウロは真実を語ります。「イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしは、神の恵みを無にはしません。」ここまで徹底した生き方を本質としたい。



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