説教

2009年5月10日

約束と成就の言葉
梅田憲章

わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。


コリントの信徒への手紙一15章50-58節


私たちの肉と血の体は、神の国に入ることが出来ない。キリストの再臨のとき、最後のラッパがなる時、再臨前に死んだ人は、「復活して朽ちない者とされ」、生きている人は復活を通さず「わたしたちは朽ちない者に、そして死なない者に変えられ」るのです。

死のとげは「罪」であるというのです。私たちを神から離れさせ、自己中心に生きる生き方が新しい命への生き方を閉ざし、死に至らせるのです。

パウロは死を軽視したり、無視したりはしません。最後の敵である死が、勝利に飲み込まれることが終末の到来、時の完成であることを固く信じているのです。

イエスの言葉と行いに目と心を注ぐことにより、救いの計画が終末の時に完成することと、救いは、現在もすでに、キリストを信じる者の中で継続的に進行していることが明らかとなる。こういうわけですから、パウロは体のよみがえりの結論として、考えにおいても、日常の生活においても主イエスの死と復活によって、私たちに死と新しい命があたえられているということから離れることなく、キリストという確かな土台の上にしっかりとたって、「主の業に常に励みなさい。」、キリスト者の生活の全領域また全時間にわたる積極的な 生き方を力強く勧告するのです。

生きていて、死ぬ私たち人間の持っている命は神が与えられた命なのです。しかし、人間は死を恐れ、生の永続を願っている。自分の命は絶対に失うことの出来ないものと思い込み、この命を長くすることのみを考えているのです。その延長線上では、死後に新しい命が与えられるなどとは考えられないのです。

テレビ放送のコマーシャル、新聞の広告に不老長寿の薬がいかにたくさん出てくるでありましょうか。不老長寿を求めるのは、過去の王様、皇帝だけではありません。長生きをしたい方はどなたでも、なのであります。自分の先を見つめる生き方、長生きしよう、元気で居よう。死はこれらをあざ笑うかのごとくに、キリスト者であろうがなかろうが、一歩一歩やってくるのです。この別れほど悲しいものはない。この死を無視や軽視したりはできない。この命が神から離れた自分の命なのです。聖書が教える「死」とは、この古い自分を捨て去ることです。廃棄するのです。そして主なる神のみ前にたつ人間の生き方を問い、神に直面する生命、新しいものの誕生を神にゆだねるのです。これが蘇りなのです。この廃棄と出会いは血と肉の体が生きている間に起こるのです。

洞爺湖教会の村上浩康さんは、「このままで」という歌を歌っている。
「I.もしも、あと1日だけしか、生きられないとしたら、僕はいったい、その1日をどうしてすごすのだろうか。たとえば、お金をあるだけ使って遊んで回るのか。あるいは、その恐怖におびえて、ふさいでいるのかもしれない。 残される家族のことを思うばかりで、過ぎてしまうのか。出来ることならば、すべてを受け入れて、昨日と同じように、過ごしたい。泣いたり、笑ったり、悩んだり、怒ったり、決してきれいじゃなくてもいいから。」

あと1日しか生きることが出来なければ、パウロはその1日があることを感謝し、その1日を恐怖や無駄に過ごすことをやめさせ、
(1) 今あるままのわたしたちは神の国を継ぐにはふさわしくない。
(2) 私たちは変わらなければならない。
(3) この変化を恐れる必要はない。キリストは私たちに、死に対する勝利をあたえてくださった。死の恐怖は神の愛への驚嘆の中に追放されたのであった。
(4) 今の生を新しい神のみ前に立つ生き方と変え、
(5) 「このような栄光が君たちを待っているのだから、神への信仰と奉仕に堅く立って、動かされるな。君たちの努力と苦労は決して無駄にならないのだから。」と迫るであろう。

クリスチャンの生活の歩みは困難であるかも知れない。しかし、永遠の命に生きる。救いの計画の未来の完成と今も働いている救いの力を体験する。それは無限の価値を持つものなのである。



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