説教

2009年5月3日

復活のからだ
梅田憲章

愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。


コリントの信徒への手紙一15章35-49節


パウロは自然の出来事を用いて、復活を説明する。

種は地中に埋められ、種としての命を終えていく。しかし、その死の只中から、種からはまったく予想もしなかった新しい命が出てくる。蒔かれた種とはまったく違った姿で地上に姿を現す。芽をだし、太陽に向かって茎を伸ばし、葉を広げ、地中では、根を四方に張っていき始める。ここには個としての断絶があり、個の生命としての連続がある。死滅があり、異なった物となる相違がある。断絶にもかかわらず、それは同じ生命であり、同じ種であり、遺伝としては同じ性質を根強く受け継ぐものとなっている。

地上で生き、地上で死ぬわたしたちの命と体は神が与えられたものであり、神が育て、生かしてくださったものです。そして地上のからだと命が完全に死んだ時、神は復活の命を与え、まったく新しい復活のからだを与えられるのです。死の後には霊の体が復活するのです。現在の毎日の生活で経験している朽ちることや弱さとは無縁であるというのです。備えられている輝かしいものに復活し、力強いものに復活するというのです。このことは、神が私たちの叫びに耳を傾け、「誰がこの死のからだから、私を救ってくれるだろうか」という叫びを引き受けてくださったからだとパウロは語ります。

最初の人アダムは土ででき、地に属する者であります。最初のアダムは創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているのです。生きていて、死ぬ私たち人間の持っている命は神が与えられた命なのです。しかし、私たちは自分の命は絶対に失うことの出来ないものと思い込み、この命を長くすることのみを考えているのです。この命のもとでは、死後に新しい命が与えられるなどとは考えられないのです。

最後のアダムは最初のアダムとはまったく違ういのちの人でした。この人のいのちは、人間のいのちではなく、神のいのちでした。イエスはこの朽ちゆく、卑しい、弱い、最初の人アダムと同じ地上のからだを取ってくださり、私たちの叫びをきかれたのです。イエスは最初の人アダムとして、十字架上で死なれたのです。麦の種が死ぬように、完全に死なれたのです。マルコによる福音書15章34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」これは、古いアダムを象徴しているのです。そして、最後のアダムとして、命を与える霊、天に属する者として、死人の中から、神の力によりよみがえらされたのです。神が新しい命、死に勝つことの出来る命を示されたのです。第二のアダム、第二の人間の姿を示されたのです。

主イエスのヨハネによる福音書11章25節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」といわれたのはこのことです。私たちに新しい命、死に勝つことの出来る命を与えるために主イエスは地上に生まれられ、肉の人として十字架に死なれたのです。そして死人のうちからよみがえらされたのです。私たちは、土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しい存在となるのです。最初のアダムに生き写しで、もろもろの悩みを受け継ぎ、死に、やがて第二の人間キリストに生き写しとなるいのちをあたえられるというのです。

地上で生き、地上で死ぬわたしたちのいのちと体は神が与えられたものであり、神が育て、生かしてくださる。そして地上の体といのちが完全に死んだ時、神は復活のいのちを与え、まったく新しい復活のからだを与えられるのです。これを信じないとしたら、おろかな人だとパウロは語るのです。



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