説教

2009年4月26日

復活はキリストからくる
梅田憲章

アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。


コリントの信徒への手紙一15章20-34節


すべての人がアダムと共に罪を犯すものとなった。だからすべての人は死ぬものとなった。「しかし、今や、キリストは死者の中から復活された。大勢の眠りについた人たちの、初穂となられた。」というのです。イスラエルの祭儀では初穂をささげることは全体をささげることを意味し、イエスの復活は、全キリスト者の復活の前兆であり、イエスがよみがえるまで、生命の新しい収穫期は到来しなかったというのです。

私たちは、法律や道徳の範囲では罪人ではなくとも、神の御前で、神を主とせず、自分中心に生きる生きかたをしていること(それを罪という)を告白せざるを得ない。罪の結果、わたしたちは死を迎える。

「死」を恐れない者は、一人もいないでしょう。

しかし、今や、キリストは死者のなかから、初穂として、復活された。キリストの復活はただ、死人がよみがえったということではなく、わたしたちの罪のために十字架につかれたキリストがよみがえられたのです。だから、自分が罪人であることを知る者は、誰でもこのよみがえりにあずかることが出来るのです。

アダムは神から逃避しようとする人間を代表し、その人らは、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」といい、行動する。この言葉は預言者イザヤが56章12節で語った言葉であり、コヘレトの言葉2章24節、ルカによる福音書12章19節、パウロも人間の心を語った言葉であります。おそらく現在でも神を知らない人々の心でしょう。

死がすべてを消滅させるのだから、そして明日のことは分からないのだから、と死をもって一切の終末であると理解する時、しょうがないという諦めが生じ、空しさを打ち消すために今を精一杯楽しもうとするのです。生きているうちにやりたいことをやっておこうと思うのです。しかし、明日は有限の時です。必ず死がやってくるのです。もうやるべきことはやりつくした。さあ死のう。こうなるのであれば、問題はありません。しかし、あやまった道を歩み、自分のからの中に閉じこもった歩みは、そこで破局を迎えるのです。

パウロは「わたしたちのために死なれたイエスは、わたしたちのために復活された。だから、わたしたちは、イエスと共に復活できるのです。」刹那的生き方を止め、神のみ手の中を歩もうとパウロは語る。

しかし、その道は、安穏たる道ではない。パウロは毎日、日々、生命の危険にさらされている。「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(コリントの信徒への手紙二 1章8-10節)というのです。復活の命に支えられて、あらゆる危険、苦しみ、脅し、虐待などの伴う業に対抗することが出来るのです。

家庭において、あるいは、いろいろな共同体、学校、職場、同好会、クラブ、教会などの中にいる時に、自分の思い、言葉、行動を振り返って見つめる時、確かに他人のことも多いが、その中に、自分の過ち、穢れ、争い、負けたくない想い、欲望などが渦巻いていることに気がつくでしょう。自分の弱さ、力なさ、不完全さを思い知らされるのです。あの時こうすべきであった。あの時こうすべきでなかったなどと反省することも多い。

肉の思いは死である。罪の結果、わたしたちは死を迎える。「死」を恐れない者は、一人もいないでしょう。明日は死ぬ身だ。だから、今日を楽しめと復活を信じることなく歩むか、それともイエスと共に復活できると信じ、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りに今日を死んでも悔いはないと生きるか。

神は主のよみがえりによって、滅ぶことのない命という価値ある日々を私たちに約束しているのです。



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