説教

2009年4月12日

復活の主、現れる‐教会学校との合同礼拝‐
梅田憲章

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。


コリントの信徒への手紙一15章1-11節


「マルチン、マルチン。あしたになったら、往来を見ていなさい。」という声に、靴屋のマルチンは驚いた。翌朝、マルチンは暗いうちにおき、祈りをささげ、窓のそばにすわって靴作りの仕事をはじめた。外を見ていると、赤ちゃんを連れた、見知らぬ女の人が、あらわれた。赤ちゃんのなき声と、それをあやしている女の声とが、きこえてきた。マルチンはたちあがり、戸ロヘでていき、女の人に声をかげた。「おかみさん、おかみさん。家へお入り。赤ちゃんの世話をするのなら、あたたかいところのほうがよかろう。」女の人は、おどろいたようすだったが、あとからついてきた。部屋のなかへ入ると、女の人は「朝から何も食べてないので、お乳も出ないのです。」といった。そこで、マルチンは、パンとキャベツスープを用意して、いった。「おかみさん、食べるがいい。赤ちゃんは、わしが見ていてあげる。」女の人は、食べながら、話しはじめた。「わたしの夫は兵隊なんですよ。夫は、八か月まえに遠いところへいって、それきりなんの便りもありません。もう三月も、仕事がなくてこまっています。持ち物はみんな、食べものにかえてしまいました。きょうも、あるお店のおかみさんのところへいってきたところです。おかみさんが来週からきてくれとおっしゃるんです。」マルチンはため息をついていった。「あたたかい着物はないのかね?」「一枚のこっていたショールも、きのう二十カペイカで質に入れてしまいました」マルチンは奥のほうへいき古いセーターをもってきた。「さあ、古いものだが、くるむぐらいのことはできるだろう」女の人は、それをうけとると、はらはらと涙をこぼしながら、たちあがってセーターをき、それで赤ちゃんをくるみ、おじぎをして、もういちどマルチンに礼をいいはじめた。「どうかこれをとっておくれ。これでシヨールを請け出すんだね」マルチンはそういって、女に二十カペイカ銀貨をわたした。

女の人が去ってから、あとをかたづけ、ランプをおろしてテーブルの上にのせ、聖書をひらいた。と同時に、かれはゆうべの声を思いだした。そのときである、ふと人かげがゆらぎ、だれやらうしろを歩く気配がした。マルチンはふりかえった。すると、かれの耳もとでささやく声がした。「マルチン、マルチン、おまえにはわたしが分からなかったのか?」「わたしだ。これがわたしなのだ」という声がしたかと思うと、赤ちゃんをだいた女の人が、くらい片すみからでてきた。女がほほえむと、赤ちゃんもにこにこわらい、そのままかききえてしまった。マルチンは聖書の開いたところから読みはじめた。《わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである》(マタイによる福音書、第25章)(L.トルストイ著 愛のあるところ神もまたいます。から)

今日は復活祭イースターです。キリストが、
(1) 十字架にかかり、死んだこと。
(2) 墓に葬られたこと。
(3) 三日目に復活したこと。
(4) ケファに現れ、その後十二人に現れ、次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れたのです。

イースターの出来事は主イエスがわたしたち一人一人と出会うことまでが含まれます。
(1) 一つの出会いは、パウロのようにです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会います。そこで、パウロは自分の弱さを自覚し、補うものとして、神の恵みを受けるのです。パウロは自分を当てにせずに、神と神の力を当てにするのです。神の恵みによって今日のパウロがあると自覚するのです。わたしたちが自分の弱さを自覚する時、神の恵みがわたしたちを助けて、生まれ変わらせてくださるのです。
(2) もう一つは、出会いはマルチンのようにであります。マルチンの出会った彼女らは姿を変え、形を変えた復活の主イエス・キリストなのです。わたしたちがわたしたちの隣人を愛する時に感ずる、しないではいられない思い、した後に感じる充足感、満足感、成長感。

救い主がわたしたちを訪ねてこられ、わたしたちが救い主をお迎えする。それが復活祭の意味なのです。



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