説教

2009年4月5日

エルサレム入城
梅田憲章

イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、
十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


マルコによる福音書 11章1-11節


エリコ街道をエルサレムに向けて、進んでいたイエスの一行は、オリーブ山のふもとに差し掛かります。ケデロンの谷を隔てて、向こうにはエルサレムのあるシオンの丘がそびえ、そこには、堂々とした神殿が建っていて、人々が集い、熱心な礼拝がなされています。そこには、その人々の信仰を商売の場と考え、私腹を肥やすものもいるのです。

さて主は二人の弟子にロバを探しに行かせます。主イエスが子ロバを確保し、それに乗って行こうとされたのは、決して一時の思い付きではありません。それは預言の成就でありました。(ゼカリヤ書9:9)ロバが柔和で忍耐強い動物であるように、主イエスも寡黙で忍耐強く、柔和でありました。主イエスは荷物を背負い、人のために働くロバの背にまたがってエルサレムにこられたのです。このことから、キリストが人を助けるため、荷を負ってくださるためにエルサレムに来られるということを知るのです。

ロバを連れて帰ろうとした時、なぜそんなことをするのかと問われたならば、「主がお入り用なのです。」と答えなさいとイエスは弟子たちに言います。イエスがご自身のことを「主」といいあらわしたのは、これが初めてです。そして、このような強い命令の形で「わたしのために差し出せ」と要求されます。
二人の弟子は出て行って、ロバを連れて帰りました。イエスが神の立つ山、オ−リブ山から断絶の谷ケデロンを通ってエルサレムに上られるのは宗教的にはユダヤ教団との対決が政治的にはローマ帝国との対決がここに始まる事を意味していたのです。

イエスはエルサレムに入ると、「神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」のです。ごまかすことのできない彼の視線を受けて、神殿は裁かれるのです。夕方になったので、主イエスは十二人の弟子を連れてベタニアに戻られます。これから、主イエスの人の知らないところで祈りにおける戦いが始まるのです。エルサレムに乗り込み、神殿に踏み込み、これを改革したもう主の祈りを感じるのです。

この入城の物語に、わたしたちは主イエスキリストの視線を感じます。イエスはシオンの丘に眼をやりながら、ユダヤ教、ローマの支配層の罪と戦うことを決意します。イエスはエルサレムにつくとすぐに神殿に行き、神殿が商売人であふれていることを見るのです。神のいない神殿は人間のにおいと人間の傲慢さと人間の怠惰と人間の自己追求のとりでとなっているのです。

わたしたちにも、この視線は降り注いでいる。3度イエスを知らないと否定したペテロを見つめる主イエスの視線。お金持ちの青年が、財産を処分せよといわれて、しょんぼり立ち去ったその男を見守る目。わたしたちが主を見出すのではなく、主がわたしたちを見出してくださっている。この視線は怒り、裁きではなく許しと憐れみを与えていやしてくれる。

キリストがわたしたちのところに来られる時、わたしたちには、革命が起こります。主ならざるものに仕えていた者は真の主に出会い、主を知ることによって、それまでの主人に対する不服従が始まり、反乱が起こり、この世の主権は没落を始めるのです。

そのようなわたしたちに、主イエスは「主がお入り用です」と要求してきます。主イエスは自分を愛するようにあなた方の隣人を愛しなさい。といわれています。あなたはキリストから受けたすべてを隣人に提供しなければなりません。あなたは隣人が必要としているものを神があなたにしてくださったように、ささげなければなりません。あなたが提供できるもの施し、祈り、断食、助言、慰め、教え、訴えかけ、叱責、許し、衣服、食物、また彼のために苦しむこと、死ぬことに於いて提供しなければなりません。よき業とはそれが相手の助けになるから、それが相手に益をなすからです。



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