説教

2009年3月22日

エルサレムのための募金
梅田憲章

主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。


コリントの信徒への手紙一16章1-9節


パウロは、エルサレム教会の貧しい信徒たちへの救済の献金を、自分が宣教した教会群に依頼します。それは当時の風習でもある助け合い運動でした。援助する側も応援することに同意し(ローマの信徒への手紙15章26節)、信仰的に霊的負担をかけている者(異邦人の教会)は物質的なもので奉仕をするのでした。(ローマの信徒への手紙15章27節)

この献金の業は、エルサレムと異邦人のあいだの競合関係を解消して、連帯強化・教会の一致を示そうとするものでした。献金をするということは、キリスト教的愛の実践であり、自分をささげることであり、各地に四散している教会員・教会が全体で一つの大きな教会を形作っていることを知るのです。

パウロは今日の箇所で2通り、手紙全体で9通りの 募金・献金という言葉によってささげることの奥の深さを表現しています。募金・献金(1,2節)の業は、法律によって命じられている義務・税などとは反対のもの。義務からではなく、自分の意志で集め、得た財産を献金すること。また、贈り物(3節)、慈善の業は原語でカリスすなわち、恵み、好意、感謝、愛らしさという意味である。自由に与えられる自由な贈り物をさす。心にあふれる愛の中から与えられたものは、たとえそれがどんなに小さくとも麗しい。そういう意味で、心の命じるところに従って与えることをパウロはこの言葉で期待している。それ以外、パウロが献金をあらわす言葉で表す内容は、○奉仕すること。○分かち合うこと。○犠牲的なささげもの。○恵み深さの象徴などである。

パウロは今、エフェソでの宣教・牧会中であり、コリントの教会への手紙を執筆中である。パウロは五旬祭・初夏までエフェソにいるというのです。そして、その後マケドニアにあるフィリピ教会、テサロニケ教会を訪れるというのです。パウロの心の中にはマケドニアの諸教会の問題も重くのしかかっている。パウロはマケドニア州を経由してコリント教会を訪れ、冬を越すほど滞在することになるかも知れないというのです。

全力を挙げてことにあたろうとする人は、とかく、自分の力を絶対視します。そこでそれを避けるという意味で、パウロは、主が許してくだされば、と主のみ旨を聞くことを忘れません。パウロの宣教活動のすべては神の導きの下にある。ということです。その結果、パウロは、パウロが必要と思うコリント訪問を抑えて、パウロの働きを必要とするエフェソにとどまります。パウロの頭の中では主が願っておられる、ユダヤ人、異邦人たちを貫く全体教会をどのように築き上げるかで埋めつくされているのです。一つ一つの教会に問題があり、みんな、自分の所に来て欲しいと願ったであろう。しかし、そのような時にもパウロはぶれることはない。なぜなら、その判断は常に主が許してくだされば、と主のみ旨を聞くことを忘れないからです。

柏木哲夫さん淀川キリスト教病院名誉ホスピス長は著作の中で、「みこころを求めていくときに、それが自分の思いなのか神様のみこころなのかということを賢く見分ける必要があります。――そのとき、本当に私が求められているかどうかということが大きなポイントではないかと思いました。」

私たちが一生懸命になって、自己中心になった時、神のみ旨は、私たちの思い、感じる必要性を崩し、明らかにされる。教会形成は個人的経験をつきぬけ、教会的経験を突き破り、世界を一つの教会とみなす神の業に連なっていく。その後計画がはっきり理解できて自分の教会の果たすべき役割が見え、自分のなすべき働きが見えてくる。そこで初めて、自分が必要を感じた事柄より、自分を必要とする事柄が今、意味を持ってくることを理解する。

あなたにとって、神から、あなたを必要としている業、あなたが召れている業は何だろうか。



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