説教

2009年3月15日

主の命令
梅田憲章

神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。


コリントの信徒への手紙一 14章26-40節


パウロは真の礼拝を語った後で、具体的な行動について指示をいたします。

異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。もし、解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。何でも、自ら得たものを発言・発表するばかりが恵みではなく、他者の語る福音や証しを聞き、これを評価し,吟味することによって、自ら得たところを確認し、活用しなさい。さらに、偽使徒やずる賢い働き手がキリストの使徒を装い、サタンでさえ光の天使を装うことがあるので、霊を見分け、吟味する力は大切な賜物の働きである。また、たとえ、誰もが理解できる福音の証しであったとしても、独りが長々と集会の時間を独占してはなりません。

カルヴァンが「御霊による真の自由とは、各自が自分のよいと思うことを何でも気ままに語ることが許されているところにはなく、すべての人が進んで、他人に先を譲り、語る人の口を通してただ一つの御霊に耳を傾ける時にあるのである。」といっています。パウロは「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」それぞれが自らの経験を語り、学んだ結果を報告しあって、教え、教えられることを願っているのです。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」です。ここで、無秩序は異常な興奮状態、平和は心の平静さ、平安な状態を意味します。私たちの神は無秩序の神ではなく、平和の神だから、それ以外のことが教会を覆う時、そこには人が神の前に立ちはだかっているのです。

しかも、秩序正しく行いなさい。と要約する。これこそが平和の神を、心を合わせてほめたたえるのにふさわしい根本的基準である。

パウロが考える真のコリント教会をまとめてみると、教会員全体が一緒に集まり、そしてその礼拝を守るすべての人が、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことのできる礼拝をささげる。その礼拝は、詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈すし、すべてはあなたがたを造り上げるものとなっている。さらに、皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようになろうとしている。すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。そうすれば、無秩序の神ではなく、平和の神がともにいてくださることが実感できるとなるであろう。

コリントの教会と現代の私たちの教会との差異はどこにあるでしょうか。
現代の教会の礼拝は、社会で働く1週間の疲れを癒し、新しい力を受けて世に出て行くという、どちらかというと受けることの多いものとなっている。
しかしパウロは、「ただ、話しを受動的に聞くために教会にくる」のではなく、「自分は礼拝に何かを寄与する権利と義務を持っているという気持ちで、教会にやってきた。ただ受けるためだけではなく、与えるために教会にきた」と語り、私たちがこのような意識の下に礼拝を守ることを望んでおられる。

神と自分の間で、1週間の歩みを振り返り、反省し、懺悔し、改めて許しを願うと同時に、一つ一つの出来事を実現しえたことを感謝し、心からあふれる賛美をささげ、献金をする。この礼拝に、わたしはこの喜びをささげたい。隣に来られた方の手助けを試みてみたい。礼拝にわたしのいただいた賜物を輝かせてみたい。こうすることによって、礼拝が礼拝となるだろう。現代の教会は、多くのことを牧師に任せ、専門性と分業化が進み、信徒の役割を最小限に減らしている。今こそ、失ってしまったものを取り戻そうではないか。



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