説教

2009年3月8日

神の言葉
梅田憲章

ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と
言い表すことになるでしょう。


コリントの信徒への手紙一 14章20-25節


パウロは語ります。異言は信じていない人々に直接に語られる神の言葉、神のしるしです。しかし、やさしい十字架の言葉 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」を聞いても、愚かなものとして拒絶する者は、異言を聞いても応答しないだろう。と。

預言を語るとは、神から告げられたことを語り、御心に従って生きる姿を示すことです。語るのは一人でも、彼は自分の考えや感情を語るのではなく、教会の福音、教会全体に与えられる福音を語るのです。「主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、死なれたこと。私たちの罪を負い、身代わりとなってくださり、それによって救われたこと。そして、三日の後に死に打ち勝って、よみがえられ、そのことによって、神と共に生きる命、永遠の命の存在を確信するにいたった」のです。このことを聞く者は、その時、生きて働く神に出会うのです。

神に出会う時、(1)神に照らして自分がどうであるかが問われるのです。これは他の人と比べてとか、自分の良心に照らし合わせてとは異なります。ヨハネによる福音書4章にイエスがサマリヤの女に出会う物語があります。短い会話の後で、町の人々に 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と答えるのです。神が見抜き、とりなしてくださるという証を私たちは多く耳にします。これらを通して、私たちは「神の聖さ」を知るのです。

(2) 自分を知らない自分に気づくのです。これは自分が考えている自分より、神の与えてくださった自分のほうが大きいことによるのです。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」このような出会い、信ずることによって今までの自分ではありえなかったことができるようになるという話が、4つの福音書だけでも14箇所あるのです。

(3) 自信を持っていたこと、得意になっていたこと、それらに限界があり、時には、間違っていたということを知るのです。自分の家庭、職場、社会における自分であります。自信を持っていたことが簡単に崩れることを人間関係の中で経験します。悔い改めることもあるでしょう。しかし、これがなかなか難しいのです。何度も何度も悔い改めるのですが、しかし新しくならないのです。悔い改めを自分の力、意志で改めようとするところに限界があるのではないでしょうか。ここでは、自分への執着を離れ、神のほうにすべてを向けて見るのです。神が与えてくださる言葉を聞き、神の出された手を握るのです。そして、救われたことを実感し、悔い改めるのです。出会いとは救われたことを実感し、悔い改めるときなのです。

(4) 教会で神に出会い、神を知るのです。生きて働く神を告白する時、礼拝は礼拝となり、教会は教会となるのです。

信仰者はどうかすると一人合点になりやすいものです。自分の信じている信仰があるゆえに、他の人や他のこともわからなくなって、独りよがりになってしまいやすいのです。信仰の言葉のみが人と人を結ぶ、唯一の絆であり、賜物です。

今日の聖書の箇所は、キリスト教の特徴を語ります。ルカによる福音書 20章38節 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」を示しているのではないでしょうか。

教会に集うものが共に生きる教会、今を生きる教会のすばらしさ味わい、そして隣人に神の言葉を証しつつ歩んで生きて行きたいものです。



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