説教

2009年3月1日

愛を追い求めなさい
梅田憲章

霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。


コリントの信徒への手紙一14章1-19節


コリント教会には異言を語る人々が大勢いました。彼らは異言を語ることが、最大の御霊の賜物であると信じ、誇っているのです。そのようなコリント教会の人々に、パウロは、それらを求める前に、「愛を追い求めなさい。」と命じます。愛が得られるまで全精力を挙げ、継続して行動しなさいというのです。愛のない御霊の賜物は、解釈されない異言のように理解されず、命の光を放ちません。賜物が空回りし、効果を示さないのです。

パウロは異言を語ることをよいことと認め、はしますが、異言を語ることより、預言することを希望します。預言というのは、神のみ旨と教えを語るという意味で、「真理を語りだす」、「宣教する」さらには「証の言葉」とか「説教」に近いものでしょう。したがって、異言に比べて、預言は人にわかる、知性的な言葉で、語る人も聞く人も信仰が形づくられてゆき、未信者に悔い改めを迫るものです。

パウロは「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。」と語ります。理性とは誰の心にも通い合うものとなることができるもののことであり、教会の祈り、讃美が誰にでも理解できるものでなければならないと語るのです。霊と知性とは対立したり、分離させるものではなく、両立し、相応ずるものであるのです。霊的といって知性を廃することも、知的を標榜して霊的であることを捨てることも誤りであり、全人格的な神の恵みに対する応答として祈り・讃美するのです。理性で語り、祈ることは、教会を建てるときレンガを一つ一つ積み上げていく時のように、時間はかかりますが、確実で信頼に応えるのです。

教会は共に集まる人々が心を一つにし、声を合わせて、主イエス・キリストの父なる神をほめ称えることができるところです。しかし、公共の場ですから、公共の場にもふさわしくなければなりません。すべての人が心のそこから「アーメン」と唱えて、同意をあらわし、祝福を受けるべきなのです。

教会には生かされている喜びを覚えつつ、不安を抱いている人、多くの悩む人、気落ちした人、病気の人、苦しみ悩んでいる人がいます。現代社会はこの教会に神のみ心が語られることを望んでいます。私たち一人一人が神の代理人として立つことを望んでいます。

私たちの周りには、受験に向かう子供たち、会社を調べ、たずね、就職しようとする青年たち、結婚しようとしているものたち、病院に入り手術を待つ人たち、職を失い、建て直しを願い、努力を続ける人々。人生の屈曲点ごとに、決断が要求され、それによって将来の人生が決まり、やり直しが聞かない局面に追い込まれていく人々であふれている。家族を含め、隣人に語りかけるのは、私たちすべてに与えられている権利であり、義務となっている。その人々に神の御心を語り、神のみ言葉を語ることを要求されているのである。

人は語ることによってその生き方が規制される。 預言することは御心に生きることであり、神の御心に生きることは教会に仕えることである。教会は祈りの共同体として、すべての人のために祈り、励まし慰める。生きる苦しみの中で、希望を見失いそうになる人と共に祈り礼拝することにより、平安が与えられ、力が与えられる。

私たちの祈りや交わりが人の心を元気にし、腕に力をよみがえらせ、頭を上げて歩みを始めさせる神の恩寵を信ずることを指し示す力がある。励ましを与えるのです。ぐにゃぐにゃに折れまがり、しわくちゃになった心をピンと真直ぐにするような、人に慰めを与えるために、私たちは、証をし、みことばを語り、祈り、福音を述べ伝えて行きたい。



前のページへ戻る