説教

2009年2月22日

愛-最も大いなるもの-
梅田憲章

信仰と、希望と、愛-------その中で最も大いなるものは、愛である。


コリントの信徒への手紙一13章8-13節


コリント教会の人々は、自分たちを終末時の完成者とみなしていたので、愛を軽視し、愛に生きず、自分の意のままに生きることを望んだ。彼らが熱心に求め、そして得られた賜物の大小で、自慢したり、卑下したりしていた。そのような霊的な賜物(預言、異言、知識)はやがて、終わりの日には神の前で、無用とされるという。それらはこの世における私たちの弱さを補うための、それぞれに限界のある一時的な、部分的な賜物であるとパウロは語る。パウロは彼らの態度を、幼子のように話し、思い、考えていると厳しく語り、それと比較して、時代が変わり、環境が変化しても不要とならないものとして愛を語るのであった。

コリント教会の人々の今の神認識が鑑に映ったように、おぼろで、間接的で、部分的で、不完全なものであり、やがて、すべてをはっきりと知ることになるというのです。パウロはコリントの教会の人々に、真に価値ある愛を求めることを、それによって神の定められた未来の時を待ち望み、信仰に生きるものとなることを願うのでした。

愛について、イエスは「よきサマリア人のたとえ」を語ります。エルサレム神殿に勤める祭司、そして、レビ人も、服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しで横たわるその人を見て、道の向こう側を通って立ち去るのでした。この瀕死のユダヤ人を助けたのは、たまたまやってきたサマリア人でした。彼は「当然見捨てるはずだ」という予想を裏切り、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」のです。(ルカによる福音書 10章30-37節)こう話して、尋ねます。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

サマリア人は助けなければならない理由はなかった。にもかかわらず、見て「心を強く動かされ」、瀕死のユダヤ人を助けるのです。瀕死の男は、誰がそばを通ったかを識別できなかった。しかし、二人も近づいてきたが、彼を見て、避けて行ってしまった。彼の心の中には絶望が広がり、気が遠くなり始めた。その時だった。誰かが近づき、じっと見、さらに近づいてきて、何も言わずに、介抱してくれたのだ。彼は薄れゆく意識の中で自分のからだが癒されていくことを感じた。しかし、それ以上に彼がうれしかったのは、自分を見出し、自分に心を動かし、自分を助け出し、自分と新しい関係を築づいてくれたこういう男がいることを知ったことであった。二人の間に生まれたまったく新しい生命が彼の体を動かし始めていた。

彼はこの災難を望んでいたのではなかった。誰がこんなことを望むだろうか。しかし、癒されるうちに彼は、自分の人生の中で、この災難の持つ意味を問い直すのであった。彼はこの男の示してくれた自分への大きな愛を体感した。この男にはどんな感謝をしても足りないな、と思った。そして、「俺も同じように生きたい」と願った。

彼はこの世に、このような存在が来られ、自分に現れ、自分を助けてくれることを知った。そして、自分も同じように働くことを決意した。ほかの人のためにすべてを放り投げて、働き、仕える道を選びたいと思った。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイによる福音書10章39節)。彼は今まで、自分の人生に、希望を持ち、神を信じる信仰を持っていると思っていた。彼の人生にこのような愛が付け加えられた今、それらがはじめて生き始めることを彼は知った。



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