説教

2009年2月15日

愛の賛歌
梅田憲章

山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。


コリントの信徒への手紙一 13章1-7節


全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。パウロは数々の霊の賜物を自己顕示や自己満足のために用いるなら、それらを何の益もないといい、愛こそがあらゆる御霊の賜物を本来の目的のために用いることを可能にする原動力であることを語り伝える。

さらに4-7節において、パウロは「愛の働き・愛の特徴」を15項目について語ります。これらは自己中心的な生活態度に対する否定であって、人間関係の好ましいありようが愛として語られているのです。

例として、2,3挙げてみましょう。まず、愛は忍耐強く、寛容であります。神が私たちを忍耐されたのと同じように、周囲の人々がどのような態度や行為を取ったとしても、根本において相手を受け入れ続けることが愛であると勧められます。さらに、愛は情け深く、愛はすべての人に親切であって、やさしいことを示します。愛はねたまないのが特徴です。私たちのするねたみに2種類あります。一つは他人の持ち物をうらやむことであり、欲しがる気持ちであり、もう一つは自分にないものを他人が持っているということに対する恨みである。

こちらは、相手が持たないことを望む思いである。いずれも愛は否定します。これらの愛の働き・特徴により、愛の幅の広さ、すばらしさを知ることができ、愛が私たちの行動を自分のためから、他者のための行動へと変えてくれることがわかるのです。愛が不可能なことを可能に変えてくれることが理解できるのです。パウロはこれを目指してがんばりなさいというのだろうか。

ある人がイエスにどの掟がもっとも重要かと尋ねた時、イエスは「 隣人を自分のように愛しなさい。」 と答える。イエスは他人といわずに隣人を愛しなさい、さらにイエスは自分を愛さずにではなく、自分を愛するように、隣人を愛しなさいというのである。

わたしたちは自分を愛するというとき、自分を一つの価値として愛している面があります。その価値を決めるのは他人である。しかし、その価値は昨日まであって、今日からなくなるような価値ではない。退職したらなくなるような価値ではない。わたしよりも価値ある人が出てきたら、その人に譲らなければならないような価値ではない。わたしはわたしであって、ほかのなにものよっても置き換えられない存在なのです。それを認め、評価し,価値を明らかとし、人格として認めてくださるのは誰でしょうか。神を置いて、その存在を見出すことは難しいでしょう。イエスが「自分を愛するように」というのは、自分に価値を認め、自分を人格として愛せよといったのであります。そこで、人は初めて自分の価値を知り、自分を愛することができるようになるのです。

佐古純一郎氏は「イエス・キリストはこの私を徹底的に主体的存在として愛してくれるお方である。イエス・キリストがこの私を主体的存在として愛してくれるように、私自身も自分を主体的存在として愛さなければならない。それが、私が自分を人格として愛するということであり、それが真に自分を愛するということである。そしてイエス・キリストは、私だけでなく、すべての人を主体的存在として愛されるのであるから、だから、私もまた、隣人を主体的存在として愛さなければならないのである。それがあの、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」という命題のほんとうの意味なのである。」と語っている。

愛とは相互に主体的な人間関係におけることがらである。それは自分と隣人の関係なのです。愛の働くところは、神にかけがいのない存在として愛されているわたしと、同じようにかけがいのない存在として愛されている隣人の間なのであります。



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