説教

2009年1月4日

偶像礼拝への警告
梅田憲章

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」


コリントの信徒への手紙一10章1-13節


パウロは、ユダヤ民族の原点は出エジプトの出来事にあることを知っており、現在のコリントの問題も出エジプトの時代の問題に重なっているというのです。

出エジプトのとき、雲の柱、火の柱が彼らを導き、支え、守りました。また、エジプト軍に紅海の岸まで追い詰められ、絶体絶命の試練の中で、神は紅海を二つに分け、彼ら海の中の乾いた所を進むことができたのです。彼らはモーセを信じ、従い、結ばれ、死のふちから救われ、モーセに属するものとなる洗礼をさずけられたと確信したのでした。さらに、神は天からマナをパンとして降らせ、ウズラを肉として与え、飢えをしのがせ、さらに、モーセは主の命じられる通りに、イスラエルの長老たちの目の前で水を湧き立たせ、のどの渇きと信仰の枯渇を防ぐのでした。彼らは神の民となり、イスラエール(神治めたもう。)と呼ばれるようになるのです。

それなのに、イスラエルの人々は 「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」と不平をもらし、偶像礼拝をし(7節)、姦淫にふけり(8節)、主を試み(9節)、つぶやき(10節 )神の救いの恵みに応えることなく、むしろ忘恩・無礼のかぎりを尽くすばかりであったのです。

神を忘れ、心ゆるみ、おごれるイスラエルは、ついに、神がさばきを下し、彼ら数十万の白骨がアラビヤの砂漢に散るのでした。

パウロは「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」と「私たちは洗礼と聖餐を受け、キリストのからだと血にあずかっている。私にはすべてのことが赦されている。」というコリント教会の人々に語りかけます。パウロは、イスラエルが犯した過ちを列挙し、その根元に偶像を礼拝することがあると指摘します。神なしで生きるはじめる時、偶像礼拝は始まっているのです。偶像礼拝によって、悪霊は人間を神から引き離し、堕落させ、神に対する罪をおかさせるのです。キリスト教的自由と称して世俗的な道、自己主張の道を選び取る人たちは、神に最高の地位を与えることを拒むのです。

冒頭の聖句は、試練に悩む人々が神の愛を感じ、励ましを覚えてきた言葉です。神の供えてくださる逃れる道とは避けることではありません。試練の只中で(2章3節)、生きる希望すら失う中で(コリントの信徒への手紙二1章8節)、あらゆる行き詰まりの中で(2章8節)、十字架に現れた神の義を受け取ることであり、十字架によって切り開かれた道を歩むことです。パウロ自らが、この試練と逃れる道をこう語っています。コリントの信徒への手紙二1章8-10節「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」

この年も私たち、そして教会はさまざまな試練にあうでしょう。その時、私たちが自分の力を頼りにせず、神を離れず歩むならば、神は私たちの希望に応えて、私たちを救ってくださるのです。この言葉に1年の歩みをかけていきたいものです。



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