説教

2008年6月1日

神が望む生活
梅田憲章

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。


テサロニケの信徒への手紙一 5章12-28節


パウロはわたしたちに、冒頭の聖句を語りかける。

自己中心的な歩みのときには、わたしたちは喜び、祈り、感謝から遠のくことをよく知っている。しかしこの言葉は、迫害、妨害、リンチ、投獄に苦しめられたパウロの言葉である。このようなパウロが何故このようなこといえるのだろうか。わたしたちの歩みは、山あり、谷にありで、パウロの言う「いつも、絶えず、どんなことにも」とはならない。しかし、そのようなわたしたちを、平和の神ご自身が、全く聖なる者にしてくださる、わたしたちの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守ってくださるのです。(23節)父なる神は心の中に、完全さ、持続性、均一性を持っておられるから、異質な、聞きなれない、不思議な言葉「いつも、絶えず、どんなことにも」が、成り立つのです。この言葉は、神の前に立った人間に、はじめて言える言葉なのです。パウロは、神において、苦難と深い喜びが両立することを知っていました。

もしわたしたちがまじめに生きることによって、いつも喜ぶ道をめざすなら、その結果は、神の思いの中であるにも係らず、達成することができず、わたしたちに反省と後悔をもたらし、不安と思い煩いに悩むことになるでしょう。神が、まず、わたしたちを全く聖なる者としてくださる。また、わたしたちの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守ってくださる。だから、わたしたちは苦難の中にいたとしても、わたし達のために働く神を認めて、喜ぶことが出来るのです。いつも喜ぶことによって、信仰を育てるのではなく、信仰が与えられているから、苦しみや困難の中に神の導きを見出し、喜ぶことが出来るのです。

祈りも同じです。祈りとはまず第一に沈黙すること,第二が語りかける神のことばを聴きとるようになること。すなわち、語りかける神の言葉に応答することなのです。パウロの「絶えず祈りなさい。」は祈ることによってわたしたちがキリスト者になるのではなく、キリスト者なのだから、わたしたちは絶えず祈りの中にいることができる。と考えるべきでありましょう。

しかし、神がわたしたちの人生を担い、導き、守ってくださるという確信が、どうしてももてないときはどうすべきであろうか。神の心が見えなくなる。そのようなとき、小さなことに対して感謝してみる。感謝は人を豊かにし、力を与え始める。わたしたちが感謝する人間になったとき、私たちの心に神の場ができる。神がはいってこられるようになる。こうして、神を信仰において受け入れるようになり、豊かに強くなり始める。神から豊かな力が流れ出す。弱く疲れ果てていたわたしたちが、神の力で育てられるようになる。

感謝することこそが、喜びの、祈りの基本になるという意味で、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです、という。

わたしたちは、自分の力を過信している。だから、どうしても自分で、努力して達成しようとする。ユダヤ人が聖書の中で、律法を守ることによって救われようと努力することを、笑いながら、自分も聖書に書いてあるのだからと、喜び、祈り、感謝しなければと自分に命じてしまう。その結果は、いうまでもない。

あなたは救われている、だから律法の思いを果たしなさいとイエスは言われている。神の中に生きはじめると「絶えず祈ること」がこういうことなのだとわかるようになり、すべてのことに感謝できるようになり、いつも喜んでいるようになる。これが永続できたらと思うが、それに山や谷がある。テサロニケの手紙はそこで「信仰と愛を胸当てとし、救いの希望を兜にして歩むこと」をゴールにしていることを知る。



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